にかく、この男の子が鳥目で夜になると視力が無くなるというので、「黒チヌ」という魚の生《い》き胆《ぎも》を主婦が方々から貰って来ては飲ませていた。一種のビタミン療法であろうと思われる。見たところ元気のいい子で、顔も背中も渋紙のような色をして、そして当時|流行《はや》っていた卑猥な流行唄《はやりうた》を歌いながら丸裸の跣足《はだし》で浜を走り廻っていた。
同じ宿に三十歳くらいで赤ん坊を一人つれた大阪弁のちょっと小意気な容貌の女がいた。どういう人だかわれわれには分らなかった。ある日高知から郵便でわれわれ三人で撮った写真がとどいてみんなで見ているところへその女もやって来てそれを手にとって眺めながら「キレーな人は写真でもやっぱりキレーや」というようなことを云った。Rは当時有名な美少年であったがKも相当な好男子であった。その時KがRに「オイ、R、ふるえちゃいかんよ」と云ってからかった。その言葉の中に複雑なKの心理の動きが感ぜられておかしかった。もっともそんなつまらないことを覚えているのは、当時の自分の子供心に軽い嫉妬のようなものを感じたためかもしれないと思われる。
もう一人の同宿者があった。どこかの小学校の先生であったと思う。自分で魚市場から買って来た魚をそのまま鱗《うろこ》も落さずわたも抜かずに鉄網で焼いてがむしゃらに貪《むさぼ》り食っていた。その豪傑振りをニヤニヤ笑っていたのは当時|張良《ちょうりょう》をもって自ら任じていたKであった。自分の眼にもこの人の無頓着ぶりが何となく本物でないように思われた。
夕方内海に面した浜辺に出て、静かな江の水に映じた夕陽の名残の消えるともなく消えてゆくのを眺めていると急に家が恋しくなって困ることがあった。たった三里くらいの彼方のわが家も、こうした入江で距《へだ》てられていると、ひどく遠いところのように思われたのであった。その後故郷を離れて熊本に住み、東京に移り、また二年半も欧米の地を遍歴したときでも、この中学時代の海水浴の折に感じたような郷愁を感じたことはなかったようである。一つにはまだ年が行かない一人子の初旅であったせいもあろうが、また一つには、わが家があまりに近くてどうでも帰ろうと思えばいつでも帰られるという可能性があるのに、そうかと云って予定の期日以前に帰るのはきまりが悪いという「煩悶」があったためらしい。その頃高知から種崎まで行くのには乗合の屋形船で潮時でも悪いと三、四時間もかかったような気がする。現在の東京の子供なら静岡か浜松か軽井沢へでも行っていたのと相当する訳である。交通速度の標準が変ると距離の尺度と時間の尺度とがまるきり喰いちがってしまうのである。
その頃にもよく浜で溺死者があった。当時の政客で○○○議長もしたことのあるK氏の夫人とその同伴者が波打際に坐り込んで砂浜を這上《はいあ》がる波頭に浴しているうちに大きな浪が来て、その引返す強い流れに引きずり落され急斜面の深みに陥って溺死した。名士の家族であっただけにそのニュースは郷里の狭い世界の耳目《じもく》を聳動《しょうどう》した。現代の海水浴場のように浜辺の人目が多かったら、こんな間違いはめったに起らなかったであろうと思われる。
溺死者の屍体が二、三日もたって上がると、からだ中に黄螺《ばい》が附いて喰い散らしていて眼もあてられないという話を聞いて怖気《おじけ》をふるったことであった。
海水着などというものはもちろんなかった。男子はアダム以前の丸裸、婦人は浴衣《ゆかた》の紐帯《ひもおび》であったと思う。海岸に売店一つなく、太平洋の真中から吹いて来る無垢《むく》の潮風がいきなり松林に吹き込んでこぼれ落ちる針葉の雨に山蟻《やまあり》を驚かせていた。
明治三十五年の夏の末頃|逗子《ずし》鎌倉へ遊びに行ったときのスケッチブックが今|手許《てもと》に残っている。いろいろないたずら書きの中に『明星』ばりの幼稚な感傷的な歌がいくつか並んでいる。こういう歌はもう二度と作れそうもない。当時二十五歳大学の三年生になったばかりの自分であったのである。
たしかその時のことである。江の島の金亀楼で一晩泊った。島中を歩き廻って宿へ帰ったら番頭がやって来て何か事々しく言訳をする。よく聞いてみると、当時高名であった強盗犯人山辺音槌とかいう男が江の島へ来ているという情報があったので警官がやって来て宿泊人を一々見て歩き留守中の客の荷物を調べたりしたというのである。強盗犯人の嫌疑候補者の仲間入りをしたのは前後にこの一度限りであった。
「藤沢江の島間電車九月一日開通、衝突脱線等あり、負傷者数名を出す」という文句の脇に「藤沢停車場前角若松の二階より」とした実に下手な鉛筆のスケッチがある。
逗子養神亭から見た向う岸の低い木柵に凭《もた》れている若い女の後姿のスケッチ
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