の海水浴が保健の一法として広く民間に行われていたことがこれで分るのである。
 明治二十六、七年頃自分の中学時代にはそろそろ「海水浴」というものが郷里の田舎でも流行《はや》り出していたように思われる。いちばん最初のいわゆる「海水浴」にはやはり父に連れられて高知|浦戸湾《うらどわん》の入口に臨む種崎《たねざき》の浜に間借りをして出かけた。以前に宅《うち》に奉公していた女中の家だったか、あるいはその親類の家だったような気がする。夕方この地方には名物の夕凪《ゆうなぎ》の時刻に門内の広い空地の真中へ縁台のようなものを据えてそこで夕飯を食った。その時宅から持って行った葡萄酒やベルモットを試みに女中の親父に飲ませたら、こんな珍しい酒は生れて始めてだと云ってたいそう喜んだが、しかしよほど変な味がするらしく小首を傾けながら怪訝《けげん》な顔をして飲んでいた。そうして、そのあとでやっぱり日本酒の方がいいと云って本音《ほんね》をはいたので大笑いになったことを覚えている。
 自分もその海水浴のときに「玉ラムネ」という生れて始めてのものを飲んで新しい感覚の世界を経験したのはよかったが、井戸端の水甕《みずがめ》に冷やしてあるラムネを取りに行って宵闇の板流しに足をすべらし泥溝《どぶ》に片脚を踏込んだという恥曝《はじさら》しの記憶がある。
 その翌年は友人のKと甥のRと三人で同じ種崎のTという未亡人の家の離れの二階を借りて一と夏を過ごした。
 この主婦の亡夫は南洋通いの帆船の船員であったそうで、アイボリー・ナッツと称する珍しい南洋産の木の実が天照皇大神《あまてらすすめおおみかみ》の掛物のかかった床の間の置物に飾ってあった。この土地の船乗りの中には二、三百トンくらいの帆船に雑貨を積んで南洋へ貿易に出掛けるのが沢山いるという話であった。浜辺へ出て遠い沖の彼方に土堤《どて》のように連なる積雲を眺めながら、あの雲の下をどこまでも南へ南へ乗出して行くといつかはニューギニアか濠洲へ着くのかしらと思ってお伽噺的な空想に耽ったりしたものである。宿の主婦の育てていた貰い子で十歳くらいの男の子があったが、この子の父親は漁師である日|鮪漁《まぐろりょう》に出たきり帰って来なかったという話であった。発動機船もなく天気予報の無線電信などもなかった時代に百マイルも沖へ出ての鮪漁は全くの命懸けの仕事であったに相違ない。それはと
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