んけつせん》から噴出する熱湯は方尺にも足りない穴から一昼夜わずかに二回しかも毎回数十分出るだけであれだけの温泉宿の湯槽《ゆぶね》を満たしている事を考えればこれも不思議ではないかもしれない。ここから流れ出すものがたくさんな樋《とい》に分流しそれにいろいろの井戸から出る水を混じて書物になり雑誌になって提供される。温度の下がらないうちにと忙しい人の手で忙しく書かれた著書や論文が忙しい読者によって電車の中や床屋の腰かけで読まれる。それで二三か月も勉強すればだれでもラッセルとかマルクスとかいう人の名前ぐらいは覚える事ができるのだろう。
 街路に向かった窓の内側にさびしい路次のようになって哲学や宗教や心理に関する書棚《しょだな》が並んでいる。
 不思議な事に自分は毎年寒い時候が来ると哲学や心理がかった書物が読みたくなる。いったい自分の病弱な肉体には気候の変化が著しく影響する。それで冬が来るとからだは全くいじけてしまって活動の力が減退する代わりに頭のほうはかえってさえて来て、心がとかくに内側へ向きたがる、そのせいかもしれない。こんな気分の時にはここの書棚を物色する事がしばしばある。読んでみたい本はいくらでもあるが、時間と金との欠乏を考えるために、めったに買って読む事はない。ただいろいろの学者の名前と本の名前をひとわたり見るだけで満足する場合が多い。だれかが「過去の産出物の内で、目に見られ、手に触れる事のできる三つのもの」の一つとして書物を数えているが、この言葉をここでしばしば思い出す。そして書物に含まれているものは過去ばかりではなくて、多くの未来の種が満載されている事を考えると、これらのたくさんの書物のまだ見ぬ内容が雲のようにまた波のように想像の地平線の上に沸き上がって来る。その雲や波の形や色が何であってもそれはかまわない。ただそれだけで何かなしに自分の目は遠い所高い所にひきつけられる。考えてみると自分も結局は一種の偶像崇拝者かもしれない。しかしこんな偶像さえも持たなかったら自分はどんなにさびしい事だろう。
 P君は moral という文字と ethics という言語に対して不思議な反感をいだいている。そしてこれに相当する日本語に対してはいっそうはげしいほとんど病的かと思われるほどの嫌悪《けんお》を感じるようである。それで自分は丸善の書棚《しょだな》でこの二つの文字を見るとよくP君を思い出すのである。P君はこれらの言語を見るか聞くか――特にある人たちの口からこれを聞く場合には反射的に直ちに非常に醜悪な罪とけがれを連想するそうである。自分は充分にその異常《アブノーマル》な心持ちをくみとる事はできないが、ただ昔の宗教革命者などという人の内には存外P君のような型の人があったのではないかという気がしているだけである。
 この書棚の次には美術に関した書物がある。たいてい版が大きくて値段も高い。自分はここへ来た時によく余分な銭がほしいと思う事がある。この棚の前には安い小さい美術書を並べた台がある。ここで自分は時々買い物をするが、そのたびにいつでも店員の中のあるものが一種の疑いの目をもって自分を注目しているような気がしたり、あるいは自分の美術に対する嗜好《しこう》に同情をもっていないらしいある人たちのだれかが、不意に自分の肩をたたいて「相変わらずやってるね」とあびせかけられはしないかという気がする。いつかクルイクシャンクの評伝を買った時に、そばに立っていた年少の店員が「クルイクシャンク/\」と言ってクスクス笑った。その時自分はなぜか顔面が急にほてるような気がした。この少年はたぶんこの画家の名前がおかしいから笑っただけだろうが、自分はあの時どうしてあんな気がしたのだろう。こんな感じのする人はほかには少ないかもしれない。しかしよく考えてみると、自分は自分の手近な「義務」とあまり直接の関係のないあらゆる享楽を味わう時には、たとえその事自身が卑近な感覚的なものでなくてもなんだか一種の不安を感じる場合が多い。いつか田舎《いなか》から出て来た親戚《しんせき》の老婦人を帝劇へ案内して菊五郎《きくごろう》と三津五郎《みつごろう》の舞踊を見せた時に、その婦人が「あまりおもしろくて、見ているうちに、私はこんなにおもしろくてもいいのかしらんと思って、なんだかそら恐ろしくなりました」と言った。この婦人はずいぶん人生の不幸をなめ尽くしたような人であったから、特にそう思われたのかもしれない。しかしこの一例から考えても、同じような経験は存外多くの人に共通なものかもしれない。ウィリアム・ジェームスの心理学の中に「音楽の享楽にふける事でさえも、その人が自分で演奏者であるか、あるいはその音楽を純理知的に受け入れるほどに音楽的の天賦を有するのでなければ、その人の人格をゆるめ弱めるという結果を
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