蛯ォな展覧会に出ない人たちの作品まで見られる便利がある、そして入場は無料である。
ここではまたいろいろの新美術品が陳列されている。陶磁器漆器鋳物その他大概のものはある。ここも今代の工芸美術の標本でありまた一般の趣味|好尚《こうしょう》の代表である。なんでもどちらかと言えばあらのない、すべっこい無疵《むきず》なものばかりである。いつかここでたいへんおもしろいと思う花瓶《かびん》を見つけてついでのあるたびにのぞいて見た。それは少し薄ぎたないようなものであったせいか、長い間買い手もつかずそこに陳列されていた。これと始めのうちに同居していたたくさんの花瓶はだんだんに入り代わって行くのに、これだけは木守りの渋柿《しぶがき》のように残っていた。ところがこのあいだ行って見ると、もうこの自分の好きな花瓶も見えなくなっていた。なんだかやっと安心したような気がしたがはたして売れたのか、あるいはあまり売れないのでどうにか処分されたのか、それもわからないと思った。
六階にあったいわゆる空中庭園は、近ごろ取り払われて、今ではおもちゃの陳列所になっている。一階から五階までの間に群がっているたくさんの人の皮膚や口から出るいろいろのなまぬるいガスがここまで登りつめたのを、上からふたをしてしまったせいか、ここへ来ると空気が悪くて長くいるとこれが頭にきいて来る。そのせいでもあるまいが自分はここにあるおもちゃに対してあまりいい気持ちはしない。たとえばセルロイドで作ったキューピーなどのてかてかした肌合《はだあい》や、ブリキ細工の汽車や自動車などを見てもなんだか心持ちが悪い。それでも年に一度ぐらいは自分の子供らにこんなおもちゃを奮発して買ってやらないわけではない。おもちゃその物の効果については時々教育家や心理学者の講話を新聞や雑誌で読んでみるが、具体的に何商店のどのおもちゃがいいという事を教えてくれないのは物足りない。実際買おうと思って見渡す時に、自分が安心してこれならと思う品がまことに少ない。こんな親父《おやじ》を持った子供らは不仕合わせでないかと思う事もある。自分の子供の時代に田舎《いなか》でもてあそんだ自然界のおもちゃには充分な自信をもって子供らに与えたいと思うものがたくさんあるが、この三越にあるようなおもちゃについては、悲しい事に積極的にも消極的にも自信がない。おもちゃというものに関して書いた書物もずいぶんあるだろうと思うが、だれかえらい人のそういう著書があれば読んでみたいものである、ついでに「おとなのおもちゃ」にまでも論及したのであればなおさらおもしろく有益であろう。
六階で以前のままなものは花卉《かき》盆栽を並べた温室である。自分は三越へ来てこの室を見舞わぬ事はめったにない。いつでも何かしら美しい花が見られる。宅《うち》の庭には何もなくなった霜枯れ時分にここへ来ると生まれかわったようにいい心持ちがする。一階から五階までありとあらゆる人工的商品をこまごま見せられて疲れかわいた目には特にこれらの草花が美しく見える。花ばかりでなくいろいろ美しい熱帯の観葉植物の燃えるような紅や、けがれのない緑の色や、典雅な形態を見ればたれしも蘇生《そせい》するここちのしない人はあるまい。そしてこのわれわれの衣食住の必要品やぜいたく品を所狭くわずらわしく置きならべた五層楼の屋上にこの小楽園を設くる事を忘れなかった経営者に対してたとえ無自覚にしろ一片の感謝を表しない人はないであろうと思う。
しかしこのごろだんだんいろいろの人に聞いてみると、中にはあの温室へはいると気持ちがわるくなるという人もあった、花だって貧弱なのばかりじゃないかと言った人もある。
丸善から三越へ回って帰る時には、たいていいつも日本銀行まで歩いてそこから外濠線《そとぼりせん》に乗る。どうかして電車がしばらく来ない時には、河岸《かし》の砂利置場《じゃりおきば》へはいってお堀《ほり》の水をながめたり呉服橋《ごふくばし》を通る電車の倒影を見送ったりする。丸善の二階で得たいろいろな印象や、三越で受けたさまざまな刺激がこの河岸の風に吹かれて緊張のゆるんだ時に、いろいろの変わった形や響きになって意識の上に浮かび上がって来る。かねてから考えている著書を早く書き初めなければならぬと思う事もある。あるいは郷里の不幸や親戚《しんせき》に無沙汰《ぶさた》をしている事を思い出す事もある。
しかしまた時として向こう河岸《がし》にもやっている荷物船から三菱《みつびし》の倉庫へ荷上げをしている人足の機械的に動くのを見たり、船頭の女房が艫《とも》で菜の葉を刻んだり洗ったりするのを見たり、あるいは若芽を吹いた柳の風にゆらぐのを見たりしていると、丸善だとか三越だとかいうものが世にもつまらない無用の長物だという気がする時もある。
電車に乗
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