フなんの理由もなしに定めた順序を変え、あるいは逆にしてもよさそうなものであるが、実際にはそのような試みをした事はない。まさかに、右ききの人間は右回りの傾向があるとかいうわけでもあるまいし、体操の時に「回れ右」をするが「回れ左」はやらない事と関係があるわけでもないだろうし、ただ自分に限られた習癖に過ぎないかもしれない。しかしだれか物好きな人があって、丸善の二階で見張っていて、たくさんの顧客の歩く道筋を統計的に調べてみたら存外おもしろい結果が得られはしまいか。心理学者や生理学者の参考になるような事が見つからないとも限らない。それほどでなくとも、少なくも丸善の経営者が書棚《しょだな》の排列を変える時の参考には確かになるだろう。漁業者がたて網の中にはいった魚の回遊する習癖を知っているから、一度はいった魚が再び逃げ出さないような網の形を設計すると同じように。
階段をおりる時に、新刊雑誌を並べた台が眼下に見おろされる。ここには、同じような体裁で、同じような内容の雑誌が、発音まで似かよったいろいろの名前で陳列されている。表紙だけすりかえておいても人々はなんの気もつかずに買って行くだろう。少年や幼年の読み物にしてもどれをあけて見ても中は同じである。そして若い柔らかい頭の中から、美に対する正しい感覚を追い出すためにわざわざ考案されたような、いかにもけばけばしい、絵というよりもむしろ臓腑《ぞうふ》の解剖図のような気味の悪い色の配合が並べられている。このような雑誌を買う事のできないほどに貧乏な子供があれば、その子は少なくもこの点で幸福であるかもしれない。なんというオリジナリティのない不健全な出版界だろう。
階下の日本書や文房具の部は、たいていもうくたびれてしまって、見ないですます事が多い。それにこのほうは、むしろ神田《かんだ》あたりで別な日に見るほうがいいという気がするので、すぐに表の通りへ出てしまう。そして大通りの風に吹かれると、別の世界に出たような心持ちになってほっとするのが通例である。
丸善を出てから銀座のほうへぶらぶら歩いて行く事もあるが、また時々|三越《みつこし》へ行く事がある。
白木屋《しろきや》のへんから日本橋を渡って行く間によく広重《ひろしげ》の「江戸百景」を思い出す。あの絵で見ると白木屋の隣に東橋庵《とうきょうあん》という蕎麦屋《そばや》がある。今は白木屋の階上で蕎麦が食われる。こんなつまらない事を考えたりする。「駿河町《するがちょう》」の絵を見ると、正面に大きな富士がそびえて、前景の両側には丸に井桁《いげた》に三の字を染め出した越後屋《えちごや》ののれんが紫色に刷られてある。絵に記録された昔の往来の人の風俗も、われわれの目には珍しくおもしろい、中でも著しく自分の目につくのは平和な町の中を両刀をさして歩いている武士の姿である。
富士山の見える日本橋に「魚河岸《うおがし》」があって、その南と北に「丸善」と「三越」が相対しているのはなんだかおもしろい事のように思われる。丸善が精神の衣食住を供給しているならば三越や魚河岸は肉体の丸善であると言ってもいいわけである。
三越の玄関の両側にあるライオンは、丸善の入り口にある手長と足長の人形と同様に、むしろないほうがよいように思われる。玄関の両わきには何か置かなければいけないという規則でもあるのなら、そういう規則は改めたほうがいいと思う。
入り口をはいると天井が高くて、頭の上がガランとしているのは気持ちがいい。桜の時節だとここの空に造花がいっぱいに飾ってあったりして、正面の階段の下では美しい制服を着た少年が合奏をやっている事もあった。いろいろな商品から出るにおいと、多数の顧客から蒸し出されるガスとで、すっかり入場者を三越的の気分にしてしまう。
自分が用のあるのは大概五階か六階であるから、多くの場合にすぐ昇降機で上ってしまう。しかし、時にはすべての階をすみからすみまで歩かせられる事もある。歩いてみるとやはり歩いてみるだけの価値は充分にある。ずいぶんいろいろの物を覚えいろいろの問題にぶつかる、そしていろいろの人間のいろいろの現象を見せてもらう事ができる。
世の中にはずいぶんいろいろな事が自慢になるものだと思う。ある婦人は月に幾回三越に行くという事を、時と場所と相手とにかまわず発表して歩く。またある学者は、まだ一度も三越に行った事がないという事を宣言するのを、その人のある主張を発表する簡易な方法の一つとして選んでいるように思われる。しかし自分のみならず多くの人は、三越に行く事を別に名誉とも恥とも思ってはいまい。
正面の階段の上り口の左側に商品切手を売る所がある。ここはいつでも人が込み合っていて数百円のを持って行く人もあれば数十円のを数十枚買って行く人もある。そうかと思うと一円のを一
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