丸善と三越
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)丸善《まるぜん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|三越《みつこし》へ行く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正九年六月、中央公論)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)「クルイクシャンク/\」と言って
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 子供の時分から「丸善《まるぜん》」という名前は一種特別な余韻をもって自分の耳に響いたものである。田舎《いなか》の小都会の小さな書店には気のきいた洋書などはもとよりなかった、何か少し特別な書物でもほしいと言うと番頭はさっそく丸善へ注文してやりますと言った。中学時代の自分の頭には実際丸善というものに対する一種の憧憬《どうけい》のようなものが潜んでいたのである。注文してから書物が到着するまでの数日間は何事よりも重大な期待となんとも知らぬ一種の不安の戦いであった。そしてそれが到着した時に感じたあの鋭い歓喜の情はもはや二度と味わう事のできない少年時代の思い出である。
 東京へ出るようになってからは時々この丸善の二階に上がって棚《たな》の書物をすみからすみへと見て行くのが楽しみの一つであった。ほしい本はたくさんあっても財布《さいふ》の中はいつも乏しかった。しかしただ書棚の中に並んでいる書物の名をガラス戸越しにながめるだけでも自分には決して無意味ではなかった、ただそれだけで一種の興奮を感じ刺激と鞭撻《べんたつ》を感ずるのであった。神社や寺院の前に立つ時に何かしら名状のできないある物が不信心な自分の胸に流れ込むと同じように、これらの書物の中から流れ出る一種の空気のようなものは知らぬ間に自分の頭にしみ込んで、ちょうど実際に読書する事によって得られる感じの中から具体的なすべてのものを除去したときに残るべきある物を感じさせるのであった。今でも覚えているがあのころここの書棚の前に立って物色している時には自分の目が妙に上づりになって顔全体が緊張するのを明らかに自覚した。そして棚《たな》のガラス戸におぼろげに映る自分の顔をひそかに注意して見た事もある。それからまたある時自分にしては比較的高価な本を買った時に応接した店員の顔がどこかにちらとひらめいたと思われた冷笑の影が自分に不思議な興奮を与えた事も思い出される。あのころには書物の値段は正札でなく一種の符徴でしるしてあった。もっともその符徴はたいていだれでも知っていたので、秘密の暗号でもなんでもなくただ数字の代わりにかたかなを使ったというだけのものであった。たとえばアンカナというのは一円二十五銭の事であったが、これが自分の頭によく残っている。イタリアの地名のようだと思った事があるからそのせいだか、あるいはこの符号のついた本を比較的に多く買ったためだか、とにかくこのアンカナの四字が丸善その物の象徴のように自分の脳髄のすみのほうに刻みつけられている。
 昔の丸善の旧式なお店《たな》ふうの建物が改築されて今の堂々たる赤煉瓦《あかれんが》に変わったのはいつごろであったか思い出せない。たぶん自分が二年ばかり東京にいなかった間の事であろうと思う。元の薄暗い窮屈な室《へや》に比べて、天井の高い窓の多い今の二階の室は比較にならないほど明るく気持ちがいい。しかし自分にはどういうものか昔の陰気なほうが、少なくも自分の頭に巣くっている「丸善」という観念にはふさわしい。今の室はあまりに明るくあまりに楽に広々としているためにそこに陳列された書物が普通のデパートメントストアの商品のような感じがしないでもない。これに反して以前の窮屈な室へはいった時には、なんとなく学者の私有文庫を見せてもらうような気がした。これは、ある友人が評したように、つまり自分の頭が旧式であって、書物とその内容を普通の商品と同様に見なしうるほどに現代化し得ないためかもしれない。
 いろいろの理由からいわゆる散歩という事に興味を持たない自分の日曜日の生活はほとんど型にはまったように単調なものである。昼飯をすませて少し休息すると、わずかばかりの紙幣を財布《さいふ》に入れて出かける。三田《みた》行きの電車を大手町《おおてまち》で乗り換えたり、あるいはそこから歩いたりして日本橋《にほんばし》の四つ角《かど》まで行く。白木屋《しろきや》に絵の展覧会でもあるとはいって見る事もあるが、大概はすぐに丸善へ行く。別にどういう本を買うあてがあるわけではないが、ただ何かしら久しぶりで仲のいい友だちを尋ねて行く時のような漠然《ばくぜん》とした期待をいだいて正面の扉《とびら》を押しあける。
 正面をはいった右側に西洋小間物を売る区画があるが自分はついぞここをのぞいて見た事がない。どうい
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