らドアに手をかけてインヴァイトするのがある。
 前者はペシミストであり、後者はオプチミストであるともいわれる。しかしまた全くその反対だともいわれる。
 いつか上野駅の向かい側のある路地の自動車停留場で、いちばん先頭の車の運転手に例のとおり曙町まで五十銭で行かないかといったら、あまり人相のよくないその男は「イカネエ」と強い意味をその横にひん曲げた口許に表示したかと思うと、いきなりエンジンをスタートして走り出した。そうして獲物をねらう鷹のような鋭い目を集注しているその視線の行く手を追跡してみると、すぐにその焦点がはっきりされた。今上野駅から出て来たらしい東北出と思われる母娘《おやこ》連れがめいめいに大きなふろしき包みをかかえて、今や車道を横切ろうとしてあたりを見回しているところであった。
 この場合は悲劇的であるかもしれないが、またひどく喜劇的であるかもしれない。そんな事を考えながらスーツケースを右手にぶらさげてぶらぶらと山下のほうへより多く合理的な運転手を物色しながら歩いて行った事であった。[#地から1字上げ](昭和十年十月十日)
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 隣に栗の樹が一本ある。二十年前にここへ移って来たころには、まだいくらも隣の家の棟《むね》を越えないくらいの高さであった。それが年々に眼に見えるように伸び茂って、夏はこんもりした木蔭を作り、いっぱいに咲いた花がこちらの庭に散りこぼれ、やがて腐れて甘ずっぱいような香《におい》をみなぎらせた。秋が来ると笑《え》みこぼれた栗の実がこちらの庭へも落ちるのを、当時まだ小さかった子供らが喜んで拾いながら大声で騒いでいたら、やがてお隣からお盆にのせてたくさんな栗の実を持たせてよこした。家内じゅうは顔を見合わせてきまりの悪い思いをしたことであった。
 この栗の樹が近年になってなんとなく老衰の兆《きざし》を見せてきた。夏の繁りもなんとなくまばらで、栗の実の落ちる数も眼立って少なくなって来た。
 次第に悪くなる東京の空気のせいであるのか、それともこの樹の本来の寿命によるものか、どうだか自分にはわからない。
 とにかく栗の樹などというものは人間よりは長生きするものとばかり思っていたが、一概にそうでもなさそうである。[#地から1字上げ](昭和十年十月十一日)
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 住み家を新築したら細君が死んだという例が自分の知っている狭い範囲でも三つはある。立派な邸宅を新築してまもなく主人が死んでその家の始末に困っているという例を近ごろ二つ聞いた。
 しかし家を立ててだれも死ななかった例は相当たくさんにあるであろうから、厳密な統計的研究をした上でなければ「家を建てると人が死ぬ」というような漠然とした言明は全然無意味である。
 しかしまた考えてみると、家を建てると人が死ぬということも、解釈のしようによっては全然無意味だともいわれない。
 今まで借家|住居《ずまい》をしていた人が、自分の住宅を新築でもしようということは、その家庭の物質的のみならず精神的生活の眼立った時期を劃する一つの目標である。今までは生活の不如意に堪えながら側目《わきめ》もふらずに努力の一路を進んで来たのが、いくらかの成効に恵まれて少し心がゆるんでくる。そういう時期にこの住宅の新築という出来事が起こるという場合がしばしばある。そういう時にもしもその家の主婦が元来弱い人であり、どのみちそう長きをすることのできない人であったと仮定する。そうするとその主婦の今まで張り詰めていた心がやっとゆるむころには、その健康はもはや臨界点近くまでむしばまれていて、気のゆるむと同時に一時に発した疲れのために朽ち木のように倒れる。そういう場合もかなりありうるわけである。
 また従来すでに一通りの成効の道を進んで来た人が、いよいよ隠退でもして老後を楽しむために新しい邸宅でも構えようというような場合にも、やはり同じような事がいわれようかと思う。
 植物が花を咲かせ実を結ぶ時はやがて枯死する時である。それとこれとは少しわけは違うがどこか似たところもないではない。
 いつまでも花を咲かせないで適当に貧乏しながら適当に働く。平凡なようであるが長生きの道はやはりこれ以外にはないようである。[#地から1字上げ](昭和十年十月十一日)
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 夜中にからだじゅうの痛む病気に罹《かか》って一晩じゅう安眠ができない。この広い世界のすべての存在が消えてしまって自分のからだの痛みだけが宇宙を占有し大千世界に瀰漫《びまん》しているような気がしている。夜が明けて繰りあけられた雨戸から空の光が流れ込む。ガラス障子越しに庭の楓《かえで》や檜《ひのき》のこずえが見え、隣の大きな栗の樹の散り残った葉が朝風にゆれていて、その向こうい
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