みに同じような建て札が立ち並んでいる。見るとそれには区会議員か何かの候補者の名前が書いてある。小さな張り板ぐらいの恰好の木枠に白紙を貼って、それに筆太に墨黒々と「原野九郎《はらのくろう》」とか「小菅雷三《こすげらいぞう》」とか「不破伊勢次《ふわいせじ》」とかそういった感じのする名前が書きひけらかしてある。
 その建て札に交じってまたところどころこれとよく似てはいるが少し風変わりな建て札が見える。それには「よせ鍋はま鍋」「蒲焼《かばやき》三十銭」「○○大特売大安売り」などという文句が読まれる。
 建て札が同型であるという事実の裏にはその建て札の内容にも若干の共通点があるという事を暗示するのではないかという気がした。
 どちらも「売り物」である。そうしてどちらにも用心しないと喰わせ物があるかもしれない。
 食物や商品のいかものが市民に及ぼす害毒は、腐敗した議員たちのそれに比べたらそれほどでもないであろう。
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 元素には今では原子番号数というものができて、何番の元素と言えばそれで事柄は完全に確定する。それだのに今でも科学者はやはり水素とか酸素とかテルリウムとかウラニウムとか、言わば一種の「源氏名《げんじな》」のようなものをつけて平気でそれを使っているのである。人間味をできるだけ脱却しよう、すべての記載をできるだけ数学的抽象的なものにしようという清教徒的科学者の捨てようとしてやはり捨て切れない煩悩《ぼんのう》の悲哀がこういうところにも認められるであろう。
 科学といえども人間の産んだ愛児の中の愛児である。血の気を絞り取ってしまったら乾干《ひぼ》しになって、孫を産む活力などは亡《な》くなってしまいはしないかという気がする。
 それはとにかく、元素の名前に「桐壺《きりつぼ》」「箒木《ははきぎ》」などというのをつけてひとりで喜んでいる変わった男も若干はあってもおもしろいではないかと思うことがある。しかしもしそんなのがあったらさぞや大学教授たちに怒られることであろう。
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 自分の欠点を相当よく知っている人はあるが、自分のほんとうの美点を知っている人はめったにいないようである。欠点は自覚することによって改善されるが、美点は自覚することによってそこなわれ亡《うしな》われるせいではないかと思われる。
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 髪を短くしている人は大概髪を延ばすと醜くなるようなたちの人だと床屋が言う。それはそういう場合もあるかもしれないが、またそうでない場合があるかもしれない。
 いつもとりすました顔をしている女は、たぶんすましたときのほうがいちばん美しく見えるような型であり、始終|笑顔《えがお》を見せている女は、やはりそうしたほうがすましているより美しく見えるような型の顔であるかもしれない。少なくも当人がそう信じていることだけは慥《たし》かであろうと思われる。
 めいめいで口をきいてめいめいの意見を吐露すべき会合の席上でいつでも黙々として始めからおしまいまで口を利かない人がある。もしかするとそれは口をきくと自分の美と尊厳をそこなうことを恐れる人ではないかという気がする。またこれと反対にいわゆる一言居士《いちげんこじ》と称するのもある。これはもちろん自分の一言の真と美を信ずるからのことであろう。しかし、自分の「我」に固執する点ではどちらも似たものである。
 公人としての会議ではやはり公の問題そのものの前に自分の私を忘れるべきであろう。「顔」を気にする女の場合とはちがうと思われる。
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 猫の尻尾《しっぽ》は猫の感情の動きに応じてさまざまの位置形状運動を示す。よく観察していると、どういう場合にどんな恰好をするかということはいくらかわかって来る。しかし、尻尾のないわれわれ人間には猫の「尻尾の気持ち」を想像することは困難である。舌で舐めたり後脚《あとあし》で掻いたりする気持ちはおおよそ想像してみることができても尻尾の振りごこちや曲げごこちは夢想することもできない。従ってわれわれは猫の尻尾の行動について「批評」する資格を持ち合わせない。
 科学の研究に体験をもたない言わばただの「科学学者」の科学論には往々人間の書いた「猫の尻尾論」のようなのがあるのも誠にやむを得ない次第であろう。
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 昭和九年十月十四日、風邪《かぜ》をひいて二階で寝ていた。障子《しょうじ》のガラス越しに見える秋晴れの空を蜻蛉《とんぼ》の群れが引っ切りなしにだいたい南から北の方向に飛んで行く。よく見るとほとんど皆二匹ずつタンデム式につながったもので、孤独な飛行者はきわめてまれである。おそらく二十分ぐらいの間この群飛がつづいたので、数にしたら
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