しい。
「お汁粉《しるこ》取りましょうか、お雑煮《ぞうに》にしましょうか。」
「もうたくさんです。」
「でも、なんか……。」
 こんな対話が行なわれる。
 こんな平凡な光景でも、時として私の心に張りつめた堅い厚い氷の上に、一|掬《きく》の温湯《ゆ》を注ぐような効果があるように思われる。
 それほどに一般科学者の生活というものが、人の心をひからびさせるものなのか、それともこれはただ自分だけの現象であるのか。
 こんなことを考えながら、あの快く広い窓のガラス越しに、うららかな好晴の日光を浴びた上野の森をながめたのであった。[#地から1字上げ](昭和五年一月、渋柿)
[#改ページ]

       *

「三毛《みけ》」に交際を求めて来る男猫《おとこねこ》が数匹ある中に、額に白斑《しろぶち》のある黒猫で、からだの小さいくせに恐ろしく慓悍《ひょうかん》なのがいる。
 これが、「三毛」の子で性質温良なる雄の「ボウヤ」を、女敵《めがたき》のようにつけねらって迫害し、すでに二度も大けがをさせた。
 なんとなく斧定九郎《おのさだくろう》という感じのする猫である。
 夜の路次《ろじ》などで、この猫に出逢うと一種の凄味《すごみ》をさえ感じさせられる。
 これと反対に、すこぶる好々爺《こうこうや》な白猫がやって来る。
 大きな顔に不均整な黄斑が少しあるのが、なんとなく滑稽味《こっけいみ》を帯びて見える。
「ボウヤ」は、この「オジサン」が来ると、喜んでいっしょについてあるくのである。
 今年の立春の宵に、外から帰って来る途上、宅《うち》から二、三丁のある家の軒にうずくまっている大きな白猫がある。
 よく見ると、それはまさしくわが親愛なる「オジサン」である。
 こっちの顔を見ると、少し口を開《あ》いて、声を出さずに鳴いて見せた。
「ヤア、……やっこさん、ここらにいるんだね。」
 こっちでも声を出さずにそう言ってやった。
 そうして、ただなんとなくおかしいような、おもしろいような気持ちになって、ほど近いわが家へと急いだのであった。
[#ここから3字下げ]
淡雪や通ひ路細き猫の恋[#地から1字上げ](昭和五年三月、渋柿)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#図7、挿し絵「猫」]
[#改ページ]

       *

 桜の静かに散る夕、うちの二人の女の子が二重唱をうたっている。
 名高
前へ 次へ
全80ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング