、渋柿)
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 大道で手品をやっているところを、そのうしろの家の二階から見下ろしていると、あんまり品玉がよく見え過ぎて、ばからしくて見ていられないそうである。
 感心して見物している人たちのほうが不思議に見えるそうである。
 それもそのはずである。
 手品というものが、本来、背後から見下ろす人のためにできた芸当ではないのだから。[#地から1字上げ](大正十三年八月、渋柿)
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「二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分のからだが、二階といっしょに、だんだん空中へ上がって行くような気がする」
と、今年十二になる女の子がいう。
 こういう子供の頭の中には、きっとおとなの知らない詩の世界があるだろうと思う。
 しかしまた、こういう種類の子供には、どこか病弱なところがあるのではないかという気がする。[#地から1字上げ](大正十三年八月、渋柿)
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 白山下《はくさんした》へ来ると、道ばたで馬が倒れていた。
 馬方が、バケツに水をくんで来ては、馬の頭から腹から浴びせかけていた。
 頸《くび》のまわりには大きな氷塊が二つ三つころがっていた。
 毎年盛夏のころにはしばしば出くわす光景である。
 こうまでならないうちに、こうなってからの手当の十分の一でもしてやればよいのにと思うことである。
 曙町《あけぼのちょう》の、とある横町をはいると、やはり道ばたに荷馬車が一台とまっていた。
 大きな葉桜の枝が道路の片側いっぱいに影を拡げている下に、馬は涼しそうに休息していた。
 馬にでも地獄と極楽はあるのである。[#地から1字上げ](大正十三年九月、渋柿)
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 向日葵《ひまわり》の苗を、試みにいろんな所に植えてみた。日当たりのいい塵塚《ちりづか》のそばに植えたのは、六尺以上に伸びて、みごとな盆大の花をたくさんに着けた。
 しかし、やせ地に植えて、水もやらずに打ち捨てておいたのは、丈《たけ》が一尺にも届かず、枝が一本も出なかった。
 それでも、申し訳のように、茎の頂上に、一銭銅貨大の花をただ一輪だけ咲かせた。
 この両方の花を比較してみても、到底同種類の植物の花とは思われないのである。
 植物にでも運不運はある。
 それにしても、人間には、はたしてこれほど
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