方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がある。[#地から1字上げ](大正十年十月、渋柿)
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 昔、ロンドン塔でライオンを飼っていた。
 十四世紀ごろの記録によると、ライオンの一日の食料その他の費用が六ペンスであった。
 そうして囚人一人前の費用はというと、その六分の一の一ペニーであったそうである。
 今の上野動物園のライオンと、深川の細民との比較がどうなっているか知りたいものである。[#地から1字上げ](大正十年十月、渋柿)
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 コスモスという草は、一度植えると、それから後数年間は、毎年ひとりで生えて来る。
 今年も三、四本出た。
 延び延びて、私の脊丈《せた》けほどに延びたが、いっこうにまだ花が出そうにも見えない。
 今朝行って見ると、枝の尖端《せんたん》に蟻《あり》が二、三|疋《びき》ずつついていて、何かしら仕事をしている。
 よく見ると、なんだか、つぼみらしいものが少し見えるようである。
 コスモスの高さは蟻の身長の数百倍である。
 人間に対する数千尺に当たるわけである。
 どうして蟻がこの高い高い茎の頂上につぼみのできたことをかぎつけるかが不思議である。[#地から1字上げ](大正十年十一月、渋柿)
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 白い萩《はぎ》がいいという人と、赤い萩がいいという人とが、熱心に永い時間議論をしていた。
 これは、実際私が、そばで聞いていたから、確かな事実である。[#地から1字上げ](大正十年十一月、渋柿)
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 田端《たばた》の停車場から出て、線路を横ぎる陸橋のほうへと下りて行く坂道がある。
 そこの道ばたに、小さなふろしきを一枚しいて、その上にがま口を五つ六つ並べ、そのそばにしゃがんで、何かしきりにしゃべっている男があった。
 往来人はおりからまれで、たまに通りかかる人も、だれ一人、この商人を見向いて見ようとはしなかった。
 それでも、この男は、あたかも自分の前に少なくも五、六人の顧客を控えてでもいるような意気込みでしゃべっていた。
 北西の風は道路の砂塵《さじん》をこの簡単な「店」の上にまともに吹きつけていた。
 この男の心持ちを想像しようとしてみたができなかった。
 しかし、めったに人の評価してくれない、あるい
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