の音がはっきり耳に聞こえるような気がした。よく注意してみると、窓の外の街上を走る電車の騒音の中に含まれているどんどんというような音を自分の耳が抽出し拾い上げて、それを眼前の視像の中に都合よく投げ込んでいたものらしい。
同様に笛を吹く場面でもかすかに笛の音らしいものが聞かれた。これは映写機のモーターの唸音《ハミング》の中から格好な楽音だけをわれわれの耳に特有な抽出作用によって選び出し、そうして視覚から来る連想の誘引に応じてスクリーンの上に投射したものらしい。
最近にはまた上記のものとは種類のちがった珍しい錯覚を経験した。それはこうである。ベルクナー主演の「女の心」(原名アリアーネ)の一場面で食卓の上にすみれの花を満載した容器が置いてある、それをアリアーネが鼻をおっつけて香をかいだりいじり回したりするのであるが、はじめは自分にはそれがなんだかよくわからなくて、葡萄《ぶどう》でも盛ったくだもの鉢《ばち》かと思っていた。そのうちに女がまたこれをいじりながらひとり言のように言ったその言葉ではじめてそれがすみれだとわかった。おかしいことには「ファイルシェン」という言葉が耳にはいってこの花の視像をそれと認識すると同時に、一抹《いちまつ》の紫色がかった雰囲気《ふんいき》がこの盛り花の灰色の団塊の中に揺曳《ようえい》するような気がした。驚いて目をみはってよく見直してもやっぱりこの紫色のかげろいは消失しない。どうしても客観的な色彩としか思われないのであった。
この二つの錯覚の場合は映画の写像の、客観的には不安全な写実能力が、いかに多く観客の頭の中に誘発される連想の補足作用によって助長されているかを示す実例として注意さるべきものかと思われるのである。
十三 「世界の終わり」と「模倣の人生」
同時に上映されたこの二つの映画の対照が自分には興味があった。
キリストの磔刑《たくけい》を演出する受難劇の場面で始まるこのフランス映画には、おしまいまで全編を通じて一種不思議な陰惨で重くるしい悪夢のような雰囲気《ふんいき》が立ち込めている。これはもちろんこの映画の題材にふさわしいように製作者の意図によって故意にかもし出されたのかもしれないが、しかし一面から見るとこの陰惨な雰囲気はフランス人の国民性そのものの中に蔵されているグルーミーでペンシィヴな要素が自然に誘い出されてここに浮き出しているのではないかという気もする。
自分は、実地を踏んで見るまでは、パリという都をただなんとなしに明るく陽気な所のように想像し、フランス人をのどかに朗らかな民族とばかり思っていたのに、ドイツからフランスへ移って見聞するうちに、この予想がことごとく裏切られた。パリの町はすすけてきたなく土地の人間にはいったいになんとなく陰気でほろにがい気分がただよっているように感ぜられたのであった。ところが、今このガンスの作品を見て昔日のこの感じを新たにするような気がした。主役をつとめるノバリーク兄弟とその敵役《かたきやく》ショーンブルクの相貌《そうぼう》もこの一種特別な感じを強めるもののように思われた。しかもそれらの顔のクローズアップのむしろ頻繁《ひんぱん》な繰り返しはいよいよその暗い印象を強めるのであった。
彗星《すいせい》の表現はあまりにも真実性の乏しい子供だましのトリックのように思われたが、大吹雪《おおふぶき》や火山の噴煙やのいろいろな実写フィルムをさまざまに編集して、ともかくも世界滅亡のカタクリズムを表現しようと試みた努力の中にはさすがにこの作者の老巧さの片影を認めることもできないことはないようである。
このフランス映画がなんとなく陰気でどこかじじむさい感じがするのに引きかえて一方のアメリカ映画「模倣の人生」はいかにも明るく新鮮である。この目立った差別には、写真レンズやフィルムの光学的化学的な技術の差から来るものもないとは言われないが、しかしなんといっても国民性の相違から来る根本的なものがすべてを支配し決定しているとしか思われない。このアメリカ映画の話の筋は決してそう明るいものではなくむしろその奥底にはかなりに悲惨な現実の問題を提供しているはずのものであるのに、映画として観客に与える感覚は主として明るくさわやかに新鮮な視像の系列としてのそれである。薄ぎたないかび臭い場面などはどこにも見られないで、言わば白いエナメルとニッケルの光沢とが全編の基調をなしているようである。どうもこういうのが近ごろのアメリカ映画の一つの定型であるらしい。たとえば「白衣の騎士」などもやはり同じ定型に属するものと見ることができはしないかと思う。この型の映画は見たあとで物語の筋などは霧のように消えてしまうが、ただ筋とはたいした関係もないような若干の場面の視覚的印象だけがかなり鮮明に残留するよう
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