たちのとかくするとかかりやすい病気のように思われる。これは、映画がまだ芸術として若い芸術であるという事が一つ、それから映画の成立にいろいろなテクニカルな要項が付帯しているために、それに関する知識の程度によって批評家の種類と段階の差別が多様になるという事がもう一つの原因になるのではないかという気がするのである。
 批評する対象の時間的恒久性という点から見ても実にいろいろな種類の批評がある。たとえば、音楽の演奏会の批評などは、その時に聞かなかった聴衆にはナンセンスである。生け花展覧会の批評などもややこれに類している。映画の批評となると、まさかそれほどでもないかもしれないが、大多数の映画の大衆観客にとっての生命はひと月とはもたない。セルロイドフィルムの保存期間が延長されない限りいくら長くても数十年を越えることはむつかしい。こういう短命なものを批評するのと、彫刻や油絵のような長持ちのするものを批評するのとでは、批評の骨の折れ方もちがうわけである。一週間映写されたきりでおそらくまず二度とは見られる気づかいのないような映画を批評するのなら、何を言っておいてもあとに証拠が残らないからいいが、金銅の大仏などについてうっかりでたらめな批評でも書いておいて、そうして運悪くこの批評が反古《ほご》にならずに百年の後になって、もしや物好きな閑人《ひまじん》のためにどこかの図書館の棚《たな》のちりの奥から掘り出されでもすると実にたいへんな恥を百年の後にさらすことになるのである。
 百年後に読む人にもおもしろくて有益なような映画評をかくということはなかなか容易な仕事ではないのである。
 こんなことを考えていると映画の批評などを書くということが世にもはかないつまらない仕事のように思われて来る。しかしまた考え直してみると自分などの毎日のすべての仕事が結局みんな同じようなはかないものになってしまうのである。
 しかし、こういうことを自覚した上で批評するのと、自覚しないで批評するのとではやはり事がらに少しの相違がありはしないか。この点についても世の映画批評家の教えを受けたいと思っている次第である。[#地から3字上げ](昭和十年二月、セルパン)

     五 人間で描いた花模様

 近ごろ見た映画「泥酔夢《でいすいむ》」(Dames)というのは、話の筋もアメリカ式のふざけたもので主題歌などもわれわれ日本
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