っぱり女の作った映画らしい柔らかみが全体に行き渡っているような気がする。最後の場面で自殺したナナが二人の男の手を握って二人の顔を見比べながら涙の中からうれしそうに笑って死んで行くところなどもやはりどうしても女らしいインタープレテーションだと思われておもしろかった。
十一 電話新選組
一種の探偵映画《たんていえいが》である。こうしたアメリカ映画では何かしら新しい趣向をして観客のどぎもを抜こうという意図が見られる。この映画では電話局の故障修繕工夫が主人公になっている。それが友だちと二人で悪漢の銀行破りの現場に虜《とりこ》になって後ろ手に縛られていながら、巧みにナイフを使って火災報知器の導線を短絡《ショート》させて消防隊を呼び寄せるが、火の手が見えないのでせっかく来た消防が引き上げてしまう。それでもう一ぺん同じように警報を発しておいて、すきを見て燭火《しょくか》を引っくりかえして火事を起こしたはいいが自分がそのために焼死しそうになるといったような場面もある。また大地震で家がつぶれ、道路が裂けて水道が噴出したり、切断した電線が盛んにショートしてスパークするという見ていて非常に危険な光景を映し出して、その中で電話工夫を活躍させている。それからまた犯人と目星をつけた女の居所を捜すのに電話番号簿を片端からしらみつぶしに呼び出しをかける場面などもやはり一つの思いつきである。
こうした趣向の新しさを競う結果は時にいろいろな無理を生じる。たとえば大地震で大混乱を生じている同じ町の警察のあたりでは何事もなかったらしいようなおかしい現象を生じている。
それでも事件の展開が簡単でなくて、一つの山から次の山へと移って行く道筋が容易には観客の予測を許さない、というだけのはたらきのあるのは、近ごろのこうしたアメリカ映画に普通である。はじめからおしまいの見すかされているような映画ばかり作る日本映画作者の参考になるであろうと思われる。
[#地から3字上げ](昭和十年四月、渋柿)
十二 映画錯覚の二例
塚本閤治《つかもとこうじ》氏撮影の小型映画を見た時の話である。たしか富士吉田町《ふじよしだまち》の火祭りの光景を写したものの中に祭礼の太鼓をたたく場面がある。そのとき、もちろん無声映画であるのにかかわらず、不思議なことには、画面に写し出された太鼓のばちの打撃に応じて太鼓
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