くつおと》がある。これがある時は石畳みの街路の上に、ある時は岩山の険路の上にまたある時は砂漠《さばく》の熱砂の上に、それぞれに異なる音色をもって響くのである。
 これらの音につれてスクリーンに現われる映像は、ただの殺風景な兵隊の行列である。これがその場面場面でいろいろの違ったパースペクチヴで銀幕上に映出され進行する。始めにヒロインとその保護者がこの行列を見送る場面ではヒロインと観客は静止していて行列はその向こう側を横に通過する。次にこの行列の帰還を迎える場面でも行列はやはりわれわれ観客の前を横に通過するのであるが、ここでは前と反対にヒロインがその行列の向こう側に見え隠れにあわただしく行ったり来たりしてカメラはこの女の行動と表情を子細に追跡する。そうして女の心の中に刻々につのって行く不安と焦燥をこくめいに映出するのである。最後の場面ではこの兵士の行列は前とは直角だけ回転している。すなわち観客を背にして遠い砂漠の果ての地平線に向かって進行する。そうする事によってこのドラマの行く手の運命の茫漠《ぼうばく》たる事を暗示している。そうして観客の眼前でこの行列とそれに従うヒロインとは熱砂の波のかなたにありありと完全に消えてしまうのである。
 この映画に取り扱われた太鼓の主題はたしかにヒロインの愛の対照のライトモチーフとしての役目を立派に果たしていると思われる。こういう点でこの映画は一つのおもしろい試みである。そうして少なくも有声映画に特有な一つの新しい可能性を指摘する点においてかなりの程度まで成効したものと思われる。
 音的主題に最も単調な太鼓が選ばれ、そうしてそれがこれほどに成効しているということはわれわれに何事かを暗示する。元来有声映画はもちろん音楽ではない。われわれは聴覚と視覚を同時に働かせる事を要求される。この場合にもしあまりに複雑な、それ自身の存在を強く主張するような音楽を持ち込んだとしたらどうであろう。おそらくわれわれの注意はその音楽のほうに吸収されて視覚のほうが消えてしまうか、あるいはかえって音楽のほうがわれわれの注意の圏外を上すべりにすべり越してしまうことになりはしないか。ともかくもこれは発声映画製作者に一つの問題を提出するものであろう。
 この映画に取り入れられた僅少《きんしょう》な音楽もかなりに有効に使われている。ヒロインが病院の病室を一つ一つ見回って愛人を捜す場面で、階下から聞こえて来る土人女の廃頽的《はいたいてき》な民謡も、この場の陰惨でしかもどこかつやけのある雰囲気《ふんいき》を濃厚にする。それから次の酒場で始終響いているピアノの東洋的なノクターンふうの曲が、巧妙にヒロインの心理の曲折を描写している。愛人の兵士が席を立ったあとで女がただ一人ナイフとカルタをいじっている。この無意識なそうして表面平静な挙動の奥にあばれている心のあらしを、隣室から響くピアノの単純なようで込み入った抑揚が細かに描いて行く。そうして食卓の上に刻まれた彼女自身の名前を見いだした最後の心機の転回に導かれるまでこのピアノ曲はあるいは強くあるいは弱く追跡して来る。突然この音が絶えると同時に銀幕のまん中にはただ一本の旗が現われ、それが強い砂漠《さばく》のあらしになびいてパリパリと鳴る音が響いて来る。ピアノの音からこの旗のはためきに移る瞬間に、われわれはちょうどあるシンフォニーでパッショネートな一楽章から急転直下 Attacca subita il seguente に明朗なフィナーレに移るときと同じような心持ちを味わうのである。
 屋上で神に祈る土人の歌謡、カバレでりんごを売る女の唱歌、それらもおもしろくない事はない。また女の捨てばちな気分を表象するようにピアノの鍵盤《けんばん》をひとなでにかき鳴らしたあとでポツンと一つ中央のCを押すのや、兵士が自分で投げた団扇《うちわ》を拾い上げようとしてそのブルータルな片手で鍵盤をガチャンと鳴らすのや、そういう音的効果もあまりわざとらしくないようにうまく取り入れられている。しかしそういう小技巧だけならば何も、この「モロッコ」に限らず、少し気のきいた映画には至るところに使われていることであろうと想像される。この映画の独自な興味は結局太鼓の音と靴音《くつおと》とこれに伴なう兵隊の行列によって象徴された特異なモチーフをもって貫かせた楽曲的構成にあると思われる。そうしてその単純明白なモチーフが非常に多面的立体的に取り扱われているために、同じものの繰り返しが少しの倦怠《けんたい》を感ぜしめないのみならず、一歩一歩と高調する戯曲的内容を導いて最後の最頂点に達するまでに観客の注意の弛緩《しかん》を許さないのであろう。
 この映画を見て非常におもしろいという人とちっともおもしろくないという人と二通りあるようである。これはこの二
前へ 次へ
全16ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング