がまた、この映画が日本あるいは東京の一般活動愛好者の感激を促し得ない理由であろうと想像される。
 この上記の点で著しく対蹠的《たいせきてき》のコントラストを形成するものは、日本の剣劇映画における立ち回りの場面である。超自然的スピードをもって白刃と人形とが場面に入り乱れて旋渦《せんか》のごとく回転する。すると、過去何百年来|歌舞伎《かぶき》や講談やの因襲的教条によって確保されて来た立ち回りというものに対する一般観客の内部に自然に進行するところのリズムがまさしくスクリーンの上に躍動するために、それによって観客の心の波は共鳴しつつ高鳴りし、そうして彼らの腕の筋肉は自然に運動を起こして拍手を誘発されるのであろう。しかしこの際これらの映画製作者は一つのだいじな事を忘却しているように見える。それは写真器械というものと人間の目というものの間に存する一つの越え難き溝渠《こうきょ》の存在を忘れているように私には思われることである。
 急速な運動を人間の目で見る場合には、たとえば暗中に振り回す線香の火のような場合ならば網膜の惰性のためにその光点は糸のように引き延ばされて見えるのであるが、普通の照明のもとに人間の運動などを見る場合だとその効果は少なくも心理的には感じられなくて、そうして各瞬間における物像はいつもくずれずに見えているように、少なくも感じるのである。ところが、これが写真の場合だとカメラのシャッターの開いている間の各瞬間における影像はことごとく重合し、その重合したぼやけくずれただらしのないものがフィルムに固定される。そういうぼやけたものを今度は週期的に一秒の何分の一の間隔をおいて投射し、それを人間の目でながめるのであるから、結果はただ全部が雑然としてごみ箱をひっくら返した上にとろろでも打ちまいたようなものになってしまう。もっともわざと焦点をはずした場合のように全部が均等に調和的にぼやけたのならば別であるが、明確なものと曖昧《あいまい》なものとが雑然と不調和に同居しているところに破綻《はたん》があり不快がある。このような失敗はほとんど日本の時代物の映画に限って現われる特異現象であるらしく思われるのである。
 ロシア映画で常に気づくことはカメラの向け方から来る構図の美しさ、ことにまた画面における線や明暗のリズミカルな駆使である。「大地」の場合においても、たとえば三人の管理人が小高い
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