て来る。たとえばアルベールがポーラの夜の宿の戸口で彼女に何事か繰り返してささやくと「イヤ」「イヤ」とそのたびに否定する。たったそれだけである。これが、大概のアメリカトーキーだと、おそらく、このアルベール君は三町四方に響くような大声で「ささやく」ことであろう。また掏摸《すり》にすられた中《ちゅう》ばあさんが髪をくくりながら鼻歌を歌っているうちに手さげの中の財布《さいふ》の紛失を発見してけたたましい叫び声を立てるが、ただそれだけである。これもアメリカトーキーだとここでなんとか一つ取っておきのせりふを言わせて、そうしてアメリカ語のわかる観客だけをどっと笑わせないと気がすまないであろう。
普通の演劇においてはせりふは本質的要素である。役者の言葉を一言一句聞きのがしてはならない。芝居は見るものであると同じくらいにまた聞くものである。聴覚のほうが主になれば役者は材木と布切れで作った傀儡《かいらい》でもよい。人形芝居がすなわちそれである。
しかし、今私がかりにパリへ行ってその屋根の下を流れ渡り、辻《つじ》の艶歌師《えんかし》を聞いたり、酒場の一隅《いちぐう》に陣取ったりしていると想像した場合に、私の眼前に登場する人物の話している言葉が一つ一つ明確に私にわかるかどうか。私がかりにはえ抜きのパリッ子であってもそう一々わかるはずがないのである。理由は簡単である。これら登場人物中には舞台の役者のような気になってしゃべっている人は一人もないからである。これはパリに限らずわれわれの日常生活の環境における明白な事実である。こういう意味でわれわれはわれわれの直接の対話の相手の言葉以外にはかなりな聾者《ろうしゃ》であり、また「外国人」である。しかし、電車の中で向こう側にすわった彼と彼女の対話を、ちょうどフランス発声映画に対すると同じ態度で見つつかつ聞き、そうして彼らの「ノン」「ウイ」だけを明瞭《めいりょう》に了解するのである。ただし電車の二人連れについては、われわれは「その前」と「その前々」のシーンに関する予備知識を持たないのであるから、従って「その次」のシーンに対する好奇心も起こらない。結局トーキーの中のただ一片のカットを見物したと同じに、興味はただそれだけで泡《あわ》のように消えてしまうのである。またある四つ辻《つじ》で人々がけんかをしている。交番に引かれる。巡査が尋問する。人だかりがする
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