んな愚作であってもそれは問題でない、のみならずあるいはむしろ愚作であればあるほどその治療的効果が大きいような気もするのである。
ちょっと考えると、たださえ頭を使い過ぎて疲れている上に、さらにまた目を使い耳を使いよけいな精神的緊張を求めるのであるから、結果はきわめて有害でありそうにも思われるであろうが、事実は全くその反対で、一、二巻のフィルムを見ているうちに、今まで頭の中に固定観念のようにへばりついていた不思議なかたまりがいつのまにか朝日の前の霜柱のようにとけて流れて消えてしまう。休憩時間に廊下へ出て腰かけて煙草《たばこ》でも吹かしていると、自然にのどかなあくびを催して来る、すると今までなんとなしにしゃちこばってぎこちないものに見えた全世界が急になごやかに快いものに感ぜられて来て、眼前を歩いている見知らぬ青年男女にもなんとない親しみを感じるようになるのがわれながら不思議なくらいである。
このような不思議な現象は自分の想像によると半ばは心理的であるが、また半ばは全く生理的のものではないかと思われる。と言うのは、たとえばこんな空想も起こし得られる。学問の研究に精神を集注しているときは大脳皮のある特定の部分に或《あ》る特定の化学的変化が起こる、その変化が長時間持続するとある化学的物質の濃度に持続的な異常を生じて、それが脳神経中枢のどこかに特殊の刺激となって働く、そうして元の精神集注状態がやんだ後までも残存しているその特殊な刺激物質のために、それによる刺激作用が頑固《がんこ》に残留しているのではないか。そこで映画を見て目と耳との感覚に注意を集注し、その映像と音響との複合から刺激された情緒的活動が開始されると、今度は脳神経中枢のどこか前とはちがった部分のちがった活動がスタートを切って、今までとはまた少しちがった場所にちがった化学作用が起こり始め、そうしてまた前とはちがった化学物質が生成されたり、ちがったイオン濃度の分配が設定されたりする。それが今までに残存していた前の学問的な精神集注による生成物に作用してそれを分解し、あるいは復元し、それによって残存していた固定観念のようなものを消散させるのではないか。
これは全くの素人《しろうと》考えの空想であるが、しかし現代の生化学《ビオヘミー》の進歩の趨勢《すうせい》には、あるいはこんな放恣《ほうし》な空想に対する誘惑を刺激するもの
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