かと思はれた。
水力発電所が何箇所かある。その中には日本一の落差で有名だといふのがある。大正池からそこまで二里に近い道程を山腹に沿うて地中の闇に隧道を掘り、その中を導いて緩かに流して来た水を急転下させてタービンを動かすのである。この工事を県当局で認可する交換条件として上高地迄の自動車道路の完成を会社に課したといふ噂話を同乗の客一人から聞かされた。かうした工事が天然の風致を破壊すると云つて慨嘆する人もあるやうであるが自分などは必ずしもさうとばかりは思はない。深山幽谷の中に置かれた発電所は、吾々の眼には矢張その環境にぴつたりはまつてザハリッヒな美しさを見せてゐる。例へば悪趣味で人を呼ぶ都会の料理屋の造り庭の全く無意味なこけおどしの石燈籠などよりも、寸分無駄のない合理的な発電所や変圧所の方がどの位美しく気持がよいか比較にならないやうに思はれるのである。
進むに従つて両岸の景色が何となく荒涼に峻険になつて来るのが感ぜられた。崖の崩れた生ま生ましい痕が現はになり渓流の中にも危岩が聳え立つて奔流を苛立たせてゐる処もある。
大きな崖崩れで道路のこはれたあとがもう荒まし修繕が出来てゐた。そこへ内務省と大きく白ペンキでマークしたトラックが一台道を塞いで止まつてその上に一杯に積んだ岩魂を三四人の人夫が下ろしてゐた。それがすむまで吾々の車は待たなければならないので車から下りて煙草を吸ひつけながらその辺に転がつてゐる岩塊を検査した。安山岩かと思はれる火山岩塊の表面が赤※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]色に風化したのが多い。いつかの昔焼岳の噴火の産物が此処まで流転して来たものと思はれた。一時止んでゐた小雨が又思出したやうにこぼれて来て口にくはへた巻煙草を濡らした。
最後の隧道を抜けていよ/\上高地の関門をくゞつたとき一番に自分の眼に映じた美しい見ものは、昔から写真でお馴染の大正池の眺めではなくて、丁度その時雲の霽間にその全貌を現はした焼岳の姿と色彩とであつた。
大正年間の大噴火に押出した泥流を被らなかつたと思はれる部分の山腹は一面にレモン黄色と温かい黒土色との複雑なニュアンスをもつて彩どられた草原に白く曝らされた枯木の幹が疎に点在してゐる。さうして所々に露出した山骨は青みがかつた真珠のやうな明るい銀灰色の条痕を成して、それがこの山の立体的な輪郭を鋭く大胆なタッチで描出してゐ
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