ひっきょう》は人間がその所信に対する確証を求めようとするまじめな欲求にほかならないかもしれない。
それはどうでもいいが、この場合迷惑至極なのは象である。腹が立っても、どうする事もできないところへ、こういう境遇に置かれてプレジュディスのめがねの焦点になっては全くやるせがない。もしも一つ所に象の仲間がおおぜいいて、そして仲間どうしで話をする事ができたらそれならなんでもない。そうなれば象仲間で人間のほうを気違いにしてしまって、そして象どうしで仲よくしていればよいのであるが、悲しい事には、この象にはそういう自分の世界が恵まれていなかった。
この場合象が気違い扱いを免れる方法はただ一つしかなかった。すなわち多数者たる人間と妥協する事であった。不幸にしてこの象はそれをあえてするにはあまりに正直で善良であったのである。その結果はあのとおりである。
これはただ一つの有りうべき場合の想像に過ぎない。しかしもしこの想像がほんとうであったとしたら、今度は思わぬ機会で今までとはちがった人間の群れの中に迎えられて、そうして、気違いでないあたりまえの象として見られ取り扱われるようになった事はこの象にとってどんなにうれしい事であったろう。想像するだけでも私は胸の奥底まで晴れ晴れとするようないい心持ちがする。
事実は全くどうだかわからない、ただ以上のような場合が今後にもありうるものとすれば、私は多くの善良な象のためにまたその善良な飼養者のために、これだけの事を参考のために書いておくのもむだな事ではあるまいと思ったのである。
[#地から3字上げ](大正十三年二月、女性改造)
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
1999年11月17日公開
2003年10月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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