でない窮屈なこういう境遇に置かれて、そして、いくら気の長い、寿命の長い象にしても、十年以上もこうして縛られているのでは、そうそういい目つきばかりもしていられないではないかという気もした。そしていったいなんのために縛られているのか象にはそれがわからない、たとえそれがわかっても、それを言い解くべき言葉を持たないのである。あまりきげんのよい顔もできない道理である。
 動物園で長い間気違いとして取り扱われて来た象が、今度花屋敷へ嫁入りする事になった。そして花屋敷の人間が来て相手になってみると、どうもいっこう気違いらしくなくて普通の常識的な象であるという事になったそうである。これは新聞で見た事であるから事実はどうだかわからない。しかしそういう事は事実有りうべき事だろうと思われる。もし事実だとすると、これはどう解釈さるべきものだろう。実際昔発狂していたのがいつのまにか直っていたのであるか、あるいは今でもやはり気違いであるけれどもその時に発作が起こらなかったというだけであるのか、それもあるいはそうかもしれない。しかしまた元来少しも狂気でないものを、誤って狂気と認定されて今日に至ったものかもしれない。万一そうであったとすると象にとってははなはだしき迷惑な事であったと言わなければならない。
 この問題に対してなんらかの判断を下しうるためにはまず第一に動物特に象の精神病に関する充分な学識が必要であり、第二にはこの象が狂気と認められるに至った狂暴な行為に関する正確な記録の知識が必要である。第三には彼がそういう行為にいずるに至った動機といきさつ[#「いきさつ」に傍点]について充分な参考材料が必要である。
 不幸にして私にはこれらの必要条件のどれもが具備していないから、従って私はこの具体的の場合についてなんらのもっともらしい想像すら下すだけの資格もない。
 しかし私はただ一つの有りうべき場合として次のような仮想的の事件を想像してみた。
 この象は始めから狂気でもなんでもなかったのである。至極お心よしの純良な性質であった。ただあまりに世間見ずのわがままなおぼっちゃんの象であった。それでこの見知らぬ国へ連れられて来て、わずかの間に、相手になる日本人の気心をのみ込んで卑屈な妥協を見いだすにはあまりに純良|高尚《こうしょう》すぎた性質をもっていたのである。ところがまたこの象を取り扱う人間もまたあいに
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