のでやはり順番で読ませる。すると五回に一度は何かしら間違えてそのたびに非常に恥じて悲しい顔をする。そしてズボンのひざをかかえていっそう考え込むのである。こんなふうで二週間もおおかた過ぎ、もう引き上げて帰ろうという少し前であったろう。一日大雨がふって霧が渦巻《うずま》き、仕事も何もできないので、みんな小屋にこもって寝ていた時、藤野の手帳が自分のそばに落ちていたのをなんの気なしに取り上げて開いて見たら、山におびただしいりんどうの花が一つしおりにはさんであって、いろんならく書きがしてあった。中に銀杏《いちょう》がえしの女の頭がいくつもあって、それから Fate という字がいろいろの書体でたくさん書き散らしてあった。仰向きに寝ていた藤野が起き上がってそれを見ると、青い顔をしたが何も言わなかった。
九 楝の花
一夏、脳が悪くて田舎《いなか》の親類のやっかいになって一月ぐらい遊んでいた。家の前は清い小みぞが音を立てて流れている。狭い村道の向こう側は一面の青田で向こうには徳川以前の小さい城跡の丘が見える。古風な屋根門のすぐわきに大きな楝《おうち》の木が茂った枝を広げて、日盛りの道に涼しい陰をこしらえていた。通りがかりの行商人などがよく門前で荷をおろし、門流れで顔を洗うたぬれ手ぬぐいを口にくわえて涼んでいる事がある。一日暑い盛りに門へ出たら、木陰で桶屋《おけや》が釣瓶《つるべ》や桶のたがをはめていた。きれいに掃いた道に青竹の削りくずや鉋《かんな》くずが散らばって楝《おうち》の花がこぼれている。桶屋は黒い痘痕《とうこん》のある一癖ありそうな男である。手ぬぐい地の肌着《はだぎ》から黒い胸毛を現わしてたくましい腕に木槌《こづち》をふるうている。槌の音が向こうの丘に反響して静かな村里に響き渡る。稲田には強烈な日光がまぶしいようにさして、田んぼは暑さに眠っているように見える。そこへ羅宇屋《らうや》が一人来て桶屋《おけや》のそばへ荷をおろす。古いそして小さすぎて胸の合わぬ小倉《こくら》の洋服に、腰から下は股引脚絆《ももひききゃはん》で、素足に草鞋《わらじ》をはいている。古い冬の中折れを眉深《まぶか》に着ているが、頭はきれいに剃《そ》った坊主らしい。「きょうも松魚《かつお》が捕《と》れたのう」と羅宇屋が話しかける。桶屋は「捕れたかい、このごろはなんぼ捕れても、みんな蒸気で上《かみ
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