れはとにかく、実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの災害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍では足りず、事によると数千の犠牲者を出したであろうと想像させるだけの根拠はある。考えてもぞっとする話である。しかしそういう場合であっても、もしも入場していた市民がそのような危急の場合に対する充分な知識と訓練を持ち合わせていて、そうしてかねてから訓練を積んだ責任ある指揮者の指揮に従って合理的統整的行動を取ることができれば、たとえ二万人三万人の群集があっても立派に無事に避難することが可能であるということは簡単な数理からでも割り出されることであると思う。火の伝播《でんぱ》がいかに迅速であるとしても、発火と同時に全館に警鈴が鳴り渡りかねてから手ぐすね引いている火災係が各自の部署につき、良好な有力な拡声機によって安全なる避難路が指示され、群集は落ち着き払ってその号令に耳をすまして静かに行動を起こし、そうして階段通路をその幅員尺度に応じて二列三列あるいは五列等の隊伍《たいご》を乱すことなく、また一定度以上の歩調を越すことなく、軍隊的に進行すればみごとに引き上げられるはずである。そのはずでなければならないのである。
しかしこのできるはずのことがなかなか容易にできないのは多くの場合に群集が周章狼狽《しゅうしょうろうばい》するためであって、その周章狼狽《しゅうしょうろうばい》は畢竟《ひっきょう》火災の伝播《でんぱ》に関する科学的知識の欠乏から来るのであろう。火がおよそいかなる速度でいかなる方向に燃え広がる傾向があるか、煙がどういうぐあいに這《は》って行くものか、火災がどのくらいの距離に迫れば危険であるか、木造とコンクリートとで燃え方がどうちがうか、そういう事に関する漠然《ばくぜん》たる概念でもよいから、一度確実に腹の底に落ちつけておけば、驚くには驚いても決して極度の狼狽から知らず知らず取り返しのつかぬ自殺的行動に突進するようなことはなくてすむわけである。同時にまた消防当局の提供する避難機関に対する一通りの予備知識と、その知識から当然生まれるはずの信頼とをもっておりさえすれば、たとい女子供でも、そうあわてなくてすむわけである。
しかしこのような訓練が実際上現在の
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