骨董趣味が存在するのである。
 一口に科学者とはいうものの、科学者の中には種々の階級がある。科学の区別は別問題として、その人々の科学というものに対する見解やまたこれを修得する目的においても十人十色と云ってよいくらいに多種多様である。実際そのためにおのおの自己の立場から見た科学以外に科学はないと考えるために種々の誤解が生じる場合もある。これらの種類を列挙するのは本文の範囲以外になるから、これは他日に譲るとして、ここには専《もっぱ》ら骨董趣味という点から見て二つの極端に位する二種の科学者を対照して見ようと思う。
 科学者の中にはその専修学科の発達の歴史に特別の興味を有《も》っている人が多数にある。これが一歩進むとその歴史に関したあらゆる記録、古文書、古器物に対して丁度骨董家が有つような愛好の念をもってこれを蒐集する人もある。これは先ず純粋な骨董趣味と名づけ得られるものであろう。また少し種類が違っているが、品物を集めるのではなくて、古い書物や論文を愛読してその中からその価値の如何によらず人のあまり知らぬ研究や事実を掘出して自ら楽しみまた人に示すを喜ぶ趣味もある。これは多くの読書家に通有な事であるが、これも一種の骨董趣味と名づけ得られない事はない。科学の方面で云えば、例えばある方則または事実の発見前幾年に誰が既にこれに類似の事を述べているといったような事を探索して楽しむのである。
 次にもう少し類を異にした骨董趣味がある。一体科学者が自己の研究を発表するに当って、その当面の問題に聯関した先人の研究を引用し批評するのは当然の務めである事は申すまでもない。しかしこれが往々にして骨董的傾向を帯びる事がある。すなわち当面の問題に多少の関係さえあれば、これが如何に目下の研究に縁が遠くまた如何に古くまた無価値ないしは全然間違ったものでも無差別無批評に列挙するという風の傾向を生じる事もある。この傾向は例えばドイツの物理学者などの中にしばしば見受ける所である。別に咎《とが》むべき事でもないと思うが、とにかく骨董趣味に類した一種の「趣味」と見ても差支えはなかろう。
 これと正反対の極端にある科学者もある。その種類の人には歴史という事は全く無意味である。古い研究などはどうでもよい。最新の知識すなわち真である。これに達した径路は問う所ではないのである。実際科学上の知識を絶対的または究極的なものと
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