スが熱を物質視したためにエネルゲチックの進歩を阻害した事も少なくない事は史家の認める所である。あえて昔に限った事はない、現在でもそういう例は沢山あろうと思う。大家と称せらるる人の所説ならばずいぶんいかがわしい事でも過信されるのは日常の事である。甲某は何々のオーソリチーであるとなれば、その人の所説は神の託宣のように誤りないと思われるのが通例である。想うにこれらは権威者の罪というよりはむしろ権威者の絶対性を妄信する無批判な群小の罪だと考えなければなるまい。もとより一般から権威と認められる人がその所説を発表し主張するについては慎重でなければならぬ事は勿論であるが、如何なる人でも千慮の一失は免れ難い。万に一つの誤りをも恐るるならばむしろ一切意見の発表を止めねばならない。万一の誤りを教えてならないとなれば世界中の学校教員は悉皆《しっかい》辞職しなければならない。万一の危険を恐れれば地震国の日本などには住まわぬがよいというと一般なものである。恐るべきは権威でなくて無批判な群衆の雷同心理でなければならない。
本当の科学を修めるのみならずその研究に従事しようというものの忘るべからざる事は、このような雷同心の芟除《さんじょ》にある。換言すれば勉《つと》めて旋毛《つむじ》を曲げてかかる事である。如何なる人が何と云っても自分の腑《ふ》に落ちるまでは決して鵜呑みにしないという事である。この旋毛曲《つむじまが》りの性質がなかったら科学の進歩は如何《どう》なったであろうか。
スコラ学派時代に科学の進歩が長い間全く停滞したのは、全くこの旋毛曲りが出なかったために外ならない。レネサンスはすなわち偉大な旋毛曲りの輩出した時代である。ガリレーはその執拗な旋毛曲りのために縄目の苦しみを受けなければならなかった。ニュートンがデカルト派の形而上学的宇宙観から割り出した物理学を離れて Hypotheses non fingo という立場からあのような偉業をしたのもそうである。Huyghens, Young が微粒子説を打破したのもファラデーが action at a distance を無視したのでも、アインスタインが時と空間に関する伝習的の考えを根本から引っくり返して相対率原理の基礎を置いたのでも、いずれにしても伝習の権威に囚われない偉人の旋毛曲りに外ならないのである。
美術家は画法に囚われて自然を見
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