な見込みが立たないために、人からはきわめてつまらないと思われる事でもなんでもがむしゃらに仕事に取りついてわき目もふらずに進行して行く。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結果にぶつかる機会も決して少なくはない。この場合にも頭のいい人は人間の頭の力を買いかぶって天然の無際限な奥行きを忘却するのである。科学的研究の結果の価値はそれが現われるまではたいていだれにもわからない。また、結果が出た時にはだれも認めなかった価値が十年百年の後に初めて認められることも珍しくはない。
頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
この事実に対する認識の不足が、科学の正常なる進歩を阻害する場合がしばしばある。これは科学にたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる。
最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子《こうし》のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子《ろうし》やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉《ばしょう》や広重《ひろしげ》の世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。
この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑《
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