それは乾燥したさわやかな暑さとちがって水蒸気で飽和された重々しい暑さであった。「いつでもまるで海老《えび》をうでたように眼の中まで真赤になっていた」という母の思い出話をよく聞かされた。もっとも虫捕りに涼しいのもあった。朝まだ暗いうちに旧城の青苔《あおごけ》滑らかな石垣によじ上って鈴虫の鳴いている穴を捜し、火吹竹で静かにその穴を吹いていると、憐れな小さな歌手は、この世に何事が起ったかを見るために、隠れ家の奥から戸口に匍《は》いだしてくる。それを待構えた残忍な悪太郎は、蚊帳《かや》の切れで作った小さな玉網でたちまちこれを俘虜《ふりょ》にする。そうして朝の光の溢るる露の草原を蹴散らして凱歌をあげながら家路に帰るのである。
 中学時代に、京都に博覧会が開かれ、学校から夏休みの見学旅行をした。高知から三、四百トンくらいの汽船に寿司詰になっての神戸までの航海も暑い旅であった。荷物用の船倉に蓆《むしろ》を敷いた上に寿司を並べたように寝かされたのである。英語の先生のHというのが風貌魁偉《ふうぼうかいい》で生徒からこわがられていたが、それが船暈《ふなよい》でひどく弱って手ぬぐいで鉢巻してうんうんうなっていた。それでも講義の時の口調で「これではブラックホールの苦しみに優るとも劣ることはない」といって生徒を笑わせた。当時マコーレーのクライヴ伝を講じていて、ブラックホールの惨劇が一同の記憶に新鮮であったのである。
 酷寒の季節に酷暑に遭った例がある。高等学校時代のある冬休みに大牟田《おおむた》炭坑を見学に行った時のことである。冬服にメリヤスを重ね着した地上からの訪問者には、地下増温率によって規定された坑内深所の温度はあまりに高過ぎた。おまけに所々に蒸気機関があり、そのスチームパイプが何本も通っているのである。坑夫等はもちろん裸体で汗にぬれた膚《はだ》にカンテラの光を無気味に反映していた。坑内では時々人殺しがある。しかし下手人は決して分らない。こんな話を聞かされたりして威《おど》されていたために、いっそうの暑さを感じたのかもしれない。やっと地上へ出たときに白日の光の有難味《ありがたみ》を始めて覚えたのである。
 高等学校を卒業していよいよ熊本を引上げる前日に保証人や教授方に暇《いとま》ごいに廻った。その日の暑さも記憶の中に際立《きわだ》って残っているものである。卒倒しそうになると氷屋へはいっ
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