夏目先生の俳句と漢詩
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)何処《どこ》かの
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(例)[#地から1字上げ](昭和三年五月『漱石全集』第十三巻、月報第三号)
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夏目先生が未だ創作家としての先生自身を自覚しない前に、その先生の中の創作家は何処《どこ》かの隙間を求めてその創作に対する情熱の発露を求めていたもののように思われる。その発露の恰好《かっこう》な一つの創作形式として選ばれたのが漢詩と俳句であった。云わば遠からず爆発しようとする火山の活動のエネルギーがわずかに小噴気口の噴煙や微弱な局部地震となって現われていたようなものであった。それにしてもそのために俳句や漢詩の形式が選ばれたという事は勿論偶然ではなかったに相違ない。先生の自然観人世観が始めから多分に俳句漢詩のそれと共通なものを含んでいた事は明らかであるが、しかしまた先生が俳句漢詩をやった事が先生の自然観人世観にかなりの反作用を及ぼしたであろうという事も当然な事であろう。ともかくも先生の晩年の作品を見る場合にこの初期の俳句や詩を背景に置いて見なければ本当の事は分らないではないかと思う事がいろいろある。少なくも晩年の作品の中に現われている色々のものの胚子《はいし》がこの短い詩形の中に多分に含まれている事だけは確実である。
俳句とは如何なるものかという問に対して先生の云った言葉のうちに、俳句はレトリックのエッセンスであるという意味の事を云われた事がある。そういう意味での俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しくなったのも当然であろう。また逆にあのような文章を作った人の俳句や詩が立派であるのは当然だとも云われよう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない。後に『草枕』のモニューメントを築き上げた巨匠の鑿《のみ》のすさびに彫《きざ》んだ小品をこの集に見る事が出来る。
先生の俳句を年代順に見て行くと、先生の心持といったようなものの推移して行った迹《あと》が最もよく追跡されるような気がする。人に読ませるための創作意識の最も稀薄な俳句において比較的自然な心持が反映しているのであろう。例えば修善寺における大患以前
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