事例はいくらでもある。ともかくも世界じゅうの化け物たちの系図調べをする事によって古代民族間の交渉を探知する一つの手掛かりとなりうる事はむしろ既知の事実である。そうして言論や文字や美術品を手掛かりとするこれと同様な研究よりもいっそう有力でありうる見込みがある。なぜかと言えば各民族の化け物にはその民族の宗教と科学と芸術とが総合されているからである。
 しかし不幸にして科学が進歩するとともに科学というものの真価が誤解され、買いかぶられた結果として、化け物に対する世人の興味が不正当に希薄になった、今どき本気になって化け物の研究でも始めようという人はかなり気が引けるであろうと思う時代の形勢である。
 全くこのごろは化け物どもがあまりにいなくなり過ぎた感がある。今の子供らがおとぎ話の中の化け物に対する感じはほとんどただ空想的な滑稽味《こっけいみ》あるいは怪奇味だけであって、われわれの子供時代に感じさせられたように頭の頂上から足の爪先《つまさき》まで突き抜けるような鋭い神秘の感じはなくなったらしく見える。これはいったいどちらが子供らにとって幸福であるか、どちらが子供らの教育上有利であるか、これも存外多くの学校の先生の信ずるごとくに簡単な問題ではないかもしれない。西洋のおとぎ話に「ゾッとする」とはどんな事か知りたいというばか者があってわざわざ化け物屋敷へ探険に出かける話があるが、あの話を聞いてあの豪傑をうらやましいと感ずべきか、あるいはかわいそうと感ずべきか、これも疑問である。ともかくも「ゾッとする事」を知らないような豪傑が、かりに科学者になったとしたら、まずあまりたいした仕事はできそうにも思われない。
 しあわせな事にわれわれの少年時代の田舎《いなか》にはまだまだ化け物がたくさんに生き残っていて、そしてそのおかげでわれわれは充分な「化け物教育」を受ける事ができたのである。郷里の家の長屋に重兵衛《じゅうべえ》さんという老人がいて、毎晩|晩酌《ばんしゃく》の肴《さかな》に近所の子供らを膳《ぜん》の向かいにすわらせて、生《なま》のにんにくをぼりぼりかじりながらうまそうに熱い杯をなめては数限りもない化け物の話をして聞かせた。思うにこの老人は一千一夜物語の著者のごとき創作的天才であったらしい。そうして伝説の化け物新作の化け物どもを随意に眼前におどらせた。われわれの臆病《おくびょう》なる小さな心臓は老人の意のままに高く低く鼓動した。夜ふけて帰るおのおのの家路には木の陰、川の岸、路地の奥の至るところにさまざまな化け物の幻影が待ち伏せて動いていた。化け物は実際に当時のわれわれの世界にのびのびと生活していたのである。中学時代になってもまだわれわれと化け物との交渉は続いていた。友人で禿《はげ》のNというのが化け物の創作家として衆にひいでていた。彼は近所のあらゆる曲がり角《かど》や芝地や、橋のたもとや、大樹のこずえやに一つずつきわめて格好な妖怪《ようかい》を創造して配置した。たとえば「三角芝《さんかくしば》の足舐《あしねぶ》り」とか「T橋のたもとの腕真砂《うでまさご》」などという類である。前者は川沿いのある芝地を空風《からかぜ》の吹く夜中に通っていると、何者かが来て不意にべろりと足をなめる、すると急に発熱して三日のうちに死ぬかもしれない[#「かもしれない」に傍点]という。後者は、城山のふもとの橋のたもとに人の腕が真砂《まさご》のように一面に散布していて、通行人の裾《すそ》を引き止め足をつかんで歩かせない、これに会うとたいていは[#「たいていは」に傍点]その場で死ぬというのである。もちろんもう「中学教育」を受けているそのころのわれわれはだれもそれらの化け物をわれわれの五官に触れうべき物理的実在としては信じなかった。それにかかわらずこの創作家Nの芸術的に描き出した立派な妖怪の「詩」はわれわれのうら若い頭に何かしら神秘な雰囲気《ふんいき》のようなものを吹き込んだ、あるいは神秘な存在、不可思議な世界への憧憬《どうけい》に似たものを鼓吹したように思われる。日常茶飯《にちじょうさはん》の世界のかなたに、常識では測り知り難い世界がありはしないかと思う事だけでも、その心は知らず知らず自然の表面の諸相の奥に隠れたある物への省察へ導かれるのである。
 このような化け物教育は、少年時代のわれわれの科学知識に対する興味を阻害しなかったのみならず、かえってむしろますますそれを鼓舞したようにも思われる。これは一見奇妙なようではあるが、よく考えてみるとむしろ当然な事でもある。皮肉なようであるがわれわれにほんとうの科学教育を与えたものは、数々の立派な中等教科書よりは、むしろ長屋の重兵衛さんと友人のNであったかもしれない。これは必ずしも無用の変痴奇論《へんちきろん》ではない。
 不幸にして科学の
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