げる狩人《かりうど》たちのスローモーションは少し薬がきき過ぎた形である。
舞踊会の「アパッシュの歌」とその画面は自分にはあまりおもしろくなかった。何かが一つ足りないような気がする。どこかに無理があるであろう。
仕立て屋だということがわかってからの「ナッシンバッタテーラ」の繰り返しもわりにおもしろくできている。家扶家従、部屋付《へやづ》き女中、料理人、せんたく女と順々にこれが伝わって行って、最後にはいよいよ引き上げて行くモーリスに、執念《しゅうね》く追い迫るスキャンダルの悪魔のささやきのようなささやき声の「ナッシンバッタテーラ」が繰り返される。これはかなり印象的である。これを聞いて帰宅して晩に寝ようとすると、枕《まくら》もとの時計の音が「カッチン、コッチン、カッチン、コッチン、ナッシン・バッタテーラ」というふうに聞こえたくらいである。
最後の汽車と騎馬との追っ駆けは、無音映画としてはあまりに陳套《ちんとう》な趣向であるが、しかしあの機関車の音と画像と、馬のひづめの音と足掻《あが》きの絵との加速度的なフラッシュ・バックにはやはりちょっとすぐにはまねのできない呼吸のうまみがあるようである。
この映画は一面にはこうした音楽的な構成においていろいろな試みをしている。この点においてこの映画の創作者ルーバン・マムーリアンは一つの道楽をしてひとりで悦に入っている感がある。しかしまた一面においては常設館の常顧客であるところの大衆の期待に応ずるような手ごろの材料をかなりに盛りだくさんにあんばいすることに骨を折ったようである。たとえばド・ヴァレーズ伯爵がけしからぬ犯行の現場から下着のままで街頭に飛び出し、おりから通りかかったマラソン競走の中に紛れ込み、店先の値段札を胸におっつけて選手の番号に擬するような、卑猥《ひわい》であくどい茶番はヤンキー王国の顧客にはぜひとも必要なものであろう。また後庭林中の夜のラヴシーンはシュヴァリエ・マクドナルドの賛美者たる若きファンのための独参湯《どくじんとう》としてやはり欠くべからざる一要件であろう。それからまた鹿狩《しかが》りの場に現われた貴族的なスポーツ風景は国粋主義の紳士淑女を喜ばすものであり、シャトーにおける生活の空虚と痴愚を露骨に風刺する多数の画面は卑近な民衆イデオロギーに迎合するものであろう。その中で比較的成効しているのは、サヴィニャク伯
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