縦中横]のマイナス何乗というような微少な量である。この虫のように自分の体重の何倍もある金属を食って、その何十プロセントを排泄するというのは全く不思議というより外はないであろう。
何のために鉛をかじるかが疑問である。送電線の被覆鉛管の内部にどんなものがはいっているか、そんなことを虫が知っていようとは思われないから、虫の目的はやはり鉛自身にあることは明白である。それなら単なる道楽かというに、虫が道楽をするというのも受取りにくい仮説である。何かしらこの虫の生存に必需な生理的要求のために本能的にかじると考える外はないように思われる。
こんな疑問を起こしているうちに、妙なことを聯想した。
われわれが小学校中学校高等学校を経て大学を卒業するまでの永い年月の間に修得したはずの知識は、分量で測ることが出来るとすればずいぶん多量なものであろうと思われる。十七、八年の間かじりつづけ、呑み込みつづけて来た知識のどれだけのプロセントが自分の身の養いになっているかと考えてみても、これはちょっと容易には分かりかねる六《むつ》かしい問題である。しかし、ともかくも、学校で教わったことの少なくも何十プロセントは綺麗に忘れてしまっていて、例えば自分等の子供に質問されて即座に明答を与えることが出来ない程度にまで意識の圏外に排泄してしまっているのは事実であるらしい。
そんなに綺麗に忘れてしまうくらいならば始めから教わらなくても同じではないかという疑問が起こるとすれば、これは自分が今この鉛を食う虫に対して抱いた疑問と少し似た所がある。
「知らない」と「忘れた」とは根本的にちがう。これはいうまでもないことである。しかしそれが全く同じであるとしても、忘れなかった僅少なプロセントがその人にとってはもっとも必要な全部であるかもしれないのである。
世の中に工率百プロセントの器械は一つもない。注ぎ込んだエネルギーの一部は必ず無駄になって消費される。電燈の場合などでも肝心の光になるエネルギーは消費される電力の割合にわずかな小部分で、あとはみんな不必要な熱となって宇宙に放散する。この、物質界に行われる原理を、鉛を食う虫の場合の生理的現象に応用する訳には行かないし、いわんや人間の精神現象に持ち込むべき所由はもとよりない。それにもかかわらず「無駄を伴わない滓《かす》を出さない有益なものは一つもない」という言明は、どう
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