ぶさたな感じはあったに相違ないが、それと同時になんだか急に世の中がのんびりしたような気持ちがないでもなかったように思う。もっとも自分のような閑人《ひまじん》はおそらく除外例かもしれないから、まず大多数の人はかなり迷惑を感じたものと見たほうが妥当には相違ない。
 まずだれよりもいちばん迷惑を感じたのは新聞社自身であったろうが、ここではそれは問題に入れるわけには行かない。それと前述の投機者階級を除いたその以外に迷惑したのはだれだったろうと考えてみた。
 続きものの小説が肝心のところで中絶したために不平であった人もあろうし、毎朝の仕事のようにしてよんでいた演芸風聞録が読めないのでなんだか顔でも洗いそこなったような気持ちのする閑人《ひまじん》もあったろう。
 こういう善良な罪のない不満に対しては同情しないわけにはいかない。しかし現在の実験を遂行する場合にこの物足りなさを補うべき代用物はいくらでも考え得られる。それにはいわゆる新聞小説よりももっとおもしろくて上等でかつ有益な小説もあろうし、風聞録の代わりになるもっとまとまった読み物もあるだろう。そういう書物を毎日新聞を読む時間にひと切りずつ読む事にしたらどうであろう。その積算的効果はかなりなものになりはしまいか。
 まとまったものを少しずつ小切って読んで行って、そうして前後の連絡を失わないようにするという事は必ずしも困難とは限らない。事がらによってはかえって一時に詰め込むよりも適当に小切ったほうが理解にも記憶にも有効であるという事は実験心理学者の認めるところである。私の知っている範囲でも、毎日電車に乗っている間だけロシア語を稽古《けいこ》したり、カントを読んだりしてそれで相当な効果をあげた人さえある。しかしかりにそういう人が例外であるとしても、ともかくも毎朝新聞を読むのといいまとまった書物を読むのと比べてどちらが頭脳の足しになるかという事は、はじめから議論にならないような気がする。
 それでも多くの人の中には新聞なら毎日読む気になるが書物と名のつくものは肩が凝ってとても読む気になれないという人があるかもしれない。それはおそらく習慣の養成でどうでもなるはずのものだとは思うが、どうしても書物のきらいな人があるとすれば、そういう人にはまたそれなりの新聞の代わりになるものはいくらでも考え得られる。
 謡の好きな人はその時間に一番ずつう
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