の一と群が小鳥のごとく戯れ遊んでいた。男の方がたいてい大人しくしおらしくて女の方がたいて活溌で度胸がいいのがこうした群に共通な現象のようである。神代以来の現象かもしれない。カメラを持った男のきっと交じっているのは近頃のことである。
 帰りに青梅を出て間もなく二度までも巡査に呼止められて検査札を見届けられた。「ナーンダ杉並か、馬鹿に小さな札じゃないか」と云って、検査済の紙札の小さい事の責任をわれわれに負わされるのであった。二度目に「つかまった」ときの巡査は今日出会った三人の中ではいちばん柔和で愛嬌のある人であったが「いったいどこへ行くんだ」「東京です」「東京なら此方《こっち》へ来ちゃダメだぞ。とんでもない処へ行っちまうぜ」と云うので、教えられたままにそこから直角に曲って南へ正しい街道を求めながら人気《ひとけ》の稀な多摩の原野を疾走した。広大な松林の中を一直線に切開いた道路は実に愉快なちょっと日本ばなれのした車路で、これは怪我の功名意外の拾い物であった。
 帰路は夕日を背負って走るので武蔵野《むさしの》特有の雑木林の聚落《しゅうらく》がその可能な最も美しい色彩で描き出されていた。到る処に穂芒《ほすすき》が銀燭のごとく灯《とも》ってこの天然の画廊を点綴《てんてい》していた。
 東京へ近よるに従って東京の匂いがだんだんに濃厚になるのがはっきり分かる。到る処の店先にはラジオの野球放送に群がる人だかりがある。市内に這入るとこれがいっそう多くなる。こうして一度にそれからそれと見て通ると、ラジオ放送のために途上で立往生している人間の数がいかに多数であるかということをはっきりとリアライズすることが出来る。実に十年前には見られなかった新しい顕著な社会現象の一つである。これが東京市内に限らず全国的であることを思うといっそう著しいことと思われて来るのである。これだけの著しい現象の直接間接の効果が日本国民全体の心理と仕事上になんらかの形で現われて来ない訳にはいかないに相違ない。その結果の善悪にかかわらず実に恐るべきことだと思われるのであった。
 新宿辺で灯がつき始めたが、駒込へ帰るまで空は明るかった。夕空の下に電燈の灯った東京の見馴れた街が、どうしたのかこの時に限って実に世にも美しい、いつもとは別な街のように見えた。
 このドライヴの効果は著しかった。その後二、三日は近頃にないほどに頭もからだも工合がよくて、仕事がはかどり気持が明るかった。やはり病院よりは田舎の空気が安くて利き目がよかったのである。
 その後にもう一度、今度は浦和から志木《しき》野火止《のびどめ》を経て成増《なります》板橋の方へ帰って来るという道筋を選んでみた。志村から浦和まではやはり地図にない立派な道路が真直ぐに通っている。この辺の昔のままの荒川沿いの景色がこうしたモダーンな道路をドライヴしながら見ると、昔とはまた全く別な景色に見えるから妙である。道路が魔法師の杖のように自然を変化させるのである。
 志木の近くの水門で釣をしている人がある。運転手が橋の上で車を止めて通りかかった老爺《ろうや》に、何が釣れるかと聞いた。少し耳の遠いらしい老人は車の窓へ首を突込むようにして、「マアはやくらいだね。河が真直ぐになったからもう何も居ねえや」と云って眼をしょぼしょぼさせた。荒川改修工事がこの爺さんには何となく不平らしい。
 この日は少し曇っていて、それでいて道路の土が乾き切っているので街道は塵が多く、川越《かわごえ》街道の眺めが一体に濁っていた。
 巣鴨から上野へと本郷通りを通るときに、また新しい経験をした。毎週一、二度は必ず車で通る大学前の通りが、今日はいつもとはまるでちがった別の町のように珍しく異様にそうして美しく眺められた。その事を云いだすと二人の子供も「オヤ、ほんとにそうだ」と云って同意したから、強《あなが》ち自分だけの錯覚ではないらしい。田舎の景色を数十分見て来たというだけの履歴効果《ヒステレシス》で、いつも見馴れた町がこんなにちがって見えるのである。
「馬鹿も一度はしてみるものだ」と云われるかもしれない。馬鹿を一遍通って来た利口と始めからの利口とはやはり別物かもしれないのである。外国の文化にかぶれたものが、もう一遍立帰って来たときに始めて日本固有の文化の善い所が新しい眼で見直されるということもあるかもしれないのである。[#地から1字上げ](昭和八年十二月『文芸』)



底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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