た。囚虜《しゅうりょ》を幽閉したという深い井戸のような穴があった。夜にでもなったら古い昔のドイツ戦士の幻影がこの穴から出て来て、風雨に曝《さら》された廃墟の上を駆け廻りそうな気がした。城の後ろは切り立てたような懸崖で深く見おろす直下には真黒なキイファアの森が、青ずんだ空気の底に黙り込んでいた。
「国の歴史や伝説やまたお伽話《とぎばなし》でもその国の自然を見た後でなければやっぱり本当には分らない。」誰かの云ったこんな言葉を思い出しながら、一行について岩山を下りた。

      アムステルダアム

 測候所を尋ねて場末の堀河に沿って歩いて行った。子供の時分に夢に見ていた古風な風景画の景色が到るところ眼前に拡がっていた。堀河にもやっている色々の船も、渋くはなやかに汚れた帆も、船頭のだぶだぶした服も、みんなロイスデエルやホベマ時代のヴェルニイがかっていた。
 測候所で案内してくれた助手のB君は剽軽《ひょうきん》で元気のいい男であった。「この晴雨計の使い方を知っているかね、一つ測って見給え」などと云った。別れ際に「ぜひ紹介したい人があるから今晩|宅《うち》へ来てくれ」と云って独りで勝手に約束をきめてしまった。
 約束の時刻に尋ねて行った。入口で古風な呼鈴《よびりん》の紐を引くと、ひとりで戸があいた。狭い階段をいくつも上っていちばん高い所にB君の質素な家庭があった。二間《ふたま》だけの住居らしい。食堂兼応接間のようなところへ案内された。細君は食卓に大きな笊《ざる》をのせて青い莢隠元《さやいんげん》をむしっていた。
 お茶を一杯よばれてから一緒に出かけて行った。とある町の小さな薬屋の店へ這入《はい》った。店には頭の禿げた肥った主人が居て、B君と二言三言話すと、私の方を見て、何か云ったがそれはオランダ語で私には分らなかった。
 店のすぐ次の間に案内された。そこは細長い部屋で、やはり食堂兼応接間のようなものであったが、B君のうちのが侘《わび》しいほど無装飾であったのと反対に、ここは何かしらゴタゴタとうるさいほど飾り立ててあった。
 壁を見ると日本の錦絵が沢山貼りつけてある。いずれも明治年代に出来た俗な絵草紙である。天井の隅には拡げた日傘が吊してある。棚や煖炉《だんろ》の上には粗製の漆器や九谷焼《くたにやき》などが並べてある。中にはドイツ製の九谷まがいも交じっているようであった。
 B氏は私の不審がっているのを面白そうに眺めるだけで、何の説明も与えてくれない。「まあ少し待ってくれ給え」と云っている。
 奧の間からこの家の主婦が出て来た。髪が真黒で顔も西洋人にしてはかなり浅黒く、目鼻立ちもほとんど日本人のようである。少しはにかんだような様子をして握手をした。しかし何も話さないで黙ってコオヒイを入れ始めた。
 B君の説明によると、この主婦の亡父は航海者であったそうである。両親がたまたま横浜に来ていた時に生れたのがこの娘であった。しかしまだ物心もつかないうちに本国に帰ってしまったので、日本の記憶と云っては夢ほどにも残っていないが、ただ生れた土地と聞くだけで日本の国土に対するゼエンズフトを懐《いだ》いている。そしていつか一度日本人というものに会ってみたいと云っていた。それを知っているB君は、今日私を見ると、ちょうどいい獲物が掛かったと思って連れて来たのである。
 B君のこの仕方は、悪意に解釈すれば私にとってあまり快くは思われない種類のものであった。しかしこの人の剽軽で学者らしく無邪気な、そしてどこか親切な態度に馴れた私はその時でも少しも悪い心持は起らなかった。そして遠い世界の果ての生れ故郷をなつかしがる人の心持も決して悪くは思えなかった。
 それにしても主婦の容貌があまり日本人によく似ているから、母親もオランダ人かと念のためにB君に聞いてみたが、やはりまぎれもない生粋《きっすい》のオランダ人だという事であった。私は不思議な気がした。当人は人から日本人に似ていると云われるのを喜んでいるそうである。
 主婦は奧の間から古ぼけた手帳のようなものを出して来た。それをあけて見ながら、何かしら単語のようなものを切れ切れに読んで聞かせた。それは「コンニチワ」「オハヨオ」などというような種類のものであったが、あまり発音が変っているから、はじめは日本語だとは気が付かないくらいであった。何だか聞きとれない言葉が出て来たので帳面を見せてもらうと‘fitots’‘stats’と書いてある。「一つ」「二つ」という数のつもりであった。私は昔の日本の蘭学者のエレキテルなどというような言葉を思い出して覚えず微笑せずにはいられなかった。それから若干の単語の正しい発音を教えてやったりしたが、しかしこれはかえって教えたり正したりしないでそのままに承認してやった方がよいのではないかとも思って
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