B氏は私の不審がっているのを面白そうに眺めるだけで、何の説明も与えてくれない。「まあ少し待ってくれ給え」と云っている。
奧の間からこの家の主婦が出て来た。髪が真黒で顔も西洋人にしてはかなり浅黒く、目鼻立ちもほとんど日本人のようである。少しはにかんだような様子をして握手をした。しかし何も話さないで黙ってコオヒイを入れ始めた。
B君の説明によると、この主婦の亡父は航海者であったそうである。両親がたまたま横浜に来ていた時に生れたのがこの娘であった。しかしまだ物心もつかないうちに本国に帰ってしまったので、日本の記憶と云っては夢ほどにも残っていないが、ただ生れた土地と聞くだけで日本の国土に対するゼエンズフトを懐《いだ》いている。そしていつか一度日本人というものに会ってみたいと云っていた。それを知っているB君は、今日私を見ると、ちょうどいい獲物が掛かったと思って連れて来たのである。
B君のこの仕方は、悪意に解釈すれば私にとってあまり快くは思われない種類のものであった。しかしこの人の剽軽で学者らしく無邪気な、そしてどこか親切な態度に馴れた私はその時でも少しも悪い心持は起らなかった。そして遠い世界の果ての生れ故郷をなつかしがる人の心持も決して悪くは思えなかった。
それにしても主婦の容貌があまり日本人によく似ているから、母親もオランダ人かと念のためにB君に聞いてみたが、やはりまぎれもない生粋《きっすい》のオランダ人だという事であった。私は不思議な気がした。当人は人から日本人に似ていると云われるのを喜んでいるそうである。
主婦は奧の間から古ぼけた手帳のようなものを出して来た。それをあけて見ながら、何かしら単語のようなものを切れ切れに読んで聞かせた。それは「コンニチワ」「オハヨオ」などというような種類のものであったが、あまり発音が変っているから、はじめは日本語だとは気が付かないくらいであった。何だか聞きとれない言葉が出て来たので帳面を見せてもらうと‘fitots’‘stats’と書いてある。「一つ」「二つ」という数のつもりであった。私は昔の日本の蘭学者のエレキテルなどというような言葉を思い出して覚えず微笑せずにはいられなかった。それから若干の単語の正しい発音を教えてやったりしたが、しかしこれはかえって教えたり正したりしないでそのままに承認してやった方がよいのではないかとも思って
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング