の音を聞きながら此處へ來てはじめての安らかな眠りに落ちて行つた。
 翌日も雨は止んだが空は晴れさうもなかつた。霧が湧いたり消えたりして、山腹から山麓へかけての景色を取換へ取換へ迅速に樣々に變化させる。世にも美しい天工の紙芝居である。一寸青空が顏を出したと思ふと又降出す。
 とある宿屋の前の崖にコンクリートで道路と同平面のテラスを造り其の下の空間を物置にして居るのがあるのは思ひ付きである。此の近代的設備の脚下の道傍に古い石地藏が赤い涎掛けをして、さうして雨曝しになつて小さく鎭座して居るのが奇觀である。此處らに未だ家も何もなかつた昔から此の地藏尊は此の山腹の小道の傍に立つて居て、さうして次第に開ける此の町の發展を見守つて來たであらうが、物を云はぬから聞いて見る譯にも行かない。
 晝飯をすませて、そろ/\歸る支度にかゝる頃から空が次第に明るくなつて來て、やがて雲が破れ、東の谷間に虹の橋が懸つた。
 歸りのバスが澁川に近づく頃、同乘の兎も角も知識階級らしい四人連の紳士が「耳がガーンとした」とか「欠伸をしたらやつと直つた」とか云つたやうな話をして居る。山を下つて氣壓が變る爲に鼓膜の壓迫されたことを云つて居るらしい。唾を飮み込めば直るといふことを知らないと見える。小學校や中學校でこのやうな科學的常識を教はらなかつたものと思はれる。學校の教育でも時には要らぬ事を教へて要ることを教へるのを忘れて居る場合があるのかも知れない。尤も教へても教へ方が惡いか、教はる方の心掛けが惡ければ教へないのも同じになる譯ではある。
 上野へついて地下室の大阪料理で夕食を食つた。土瓶むしの土瓶のつるを持ち上げると土瓶が横に傾いて汁がこぼれた。土瓶の耳の幅が廣過ぎるのである。此處にも簡單な物理學が考慮の外に置かれてゐるのであつた。どうして、かう「科學」といふものが我が文化國日本で嫌はれ敬遠されるかゞ不思議である。
 雨の爲に榛名湖は見られなかつたが、併し雨のおかげでからだの休養が出來た。讀まず、書かず、電話が掛からず、手紙が來ず、人に會はずの三日間で頭の疲れが直り、從つて胃の苦情もいくらか減つたやうである。その上に、宿屋の階段の連續的足音の奇現象を觀察することの出來たのは思はぬ拾ひものであつた。
 温泉には三度しかはひらなかつた。湯は黄色く濁つてゐて、それに少しぬるくて餘り氣持がよくなかつた。その上に階段を五つも下りて又上がらなければならなかつた。温泉場と階段はとかくつきものである。温泉場へ來たからには義理にも度々温泉に浴しなければならないといふ譯もないが、すこしすまなかつたやうな氣がする。
 他の温泉でもさうであるが、浴槽に浸つて居ると、槽外の流しでからだを洗つて居る浴客がざあつと溜め桶の水を肩からあびる。そのしぶきが散つて此方の頭上に降りかゝるのはそれ程潔癖でないつもりの自分にも餘り愉快でない。此れも矢張り宿屋へ蓄音機を持ち込み、宿屋で東京音頭を踊るタイプの、無邪氣で善良で、人に迷惑をかけるのを人情の厚い證據とするアルトルイスト日本國民のすることである。併し不人情でエゴイストの自分等のやうなものには迷惑なのである。此れは浴槽を適當に一段高くしておけば問題はなくなるであらう。
 序に、かうした宿屋には鐵筋コンクリートの階段と舞踊室、外へ聲の漏れぬ蓄音機演奏室などを設けたら自分等のやうな我儘者の爲にはいゝと思ふが、それでも騷ぎたい人達には張合がなくていけないかもしれない。
 結局、最も平凡で簡單で最も有效な解決法としては、自分のやうなものは土曜日曜祭日などにかういふ處へ行かないやうにすればよいのである。さういふ平凡な眞理を體驗する爲に、此れだけの手數が掛かつたといふ譯である。あたまが惡いと云はれても申開きはない次第である。
 併し、何か「しなかつたこと」をすると屹度、何かしら一つ「ものを覺える」から妙である。

 歸京後疲勞がすつかり直つて見ると、からだの工合が近頃覺えない程よくなつて仕事の進捗もよくなつた。温泉が利いたのか、それとも宿屋で受けた色々の「教育」が利いたのかも知れない。さうだとすると、矢張り土曜日に出かけて人に揉まれに行く方が存外いゝ事になるかも知れない。


 或る科學の大家に其の弟子の一人が「仕事が行詰まりになつて困つた時はどうすればいゝでせう」と聞いたのに答へて「Do something なんでもいゝ。何かをどうかし玉へ。あとはひとりで途が明いて來る」と云つたさうである。自分の健康の行詰まりには此度の伊香保がサム・シングであつたのである。世界の行詰まりを救ふサム・シングを世界中の爲政者や思想家やが試みてゐるが、此の利目は未だわからないやうである。
 東京踊なども矢張り此のサム・シングの一つではあるかも知れない。



底本:「現代日本紀行文学全集
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング