なければ全くわからないが、窓のながめのよしあしぐらいは自分の目で見つけ出し選択する自由を許してもらいたいような気もした。
 ベデカというものがなかった時の不自由は想像のほかであろうが、しかしまれには最新刊のベデカにだまされる事もまるでないではない。ある都の大学を尋ねて行ったらそこが何かの役所になっていたり、名高い料理屋を捜しあてると貸し家札が張ってあったりした事もある。杜撰《ずざん》な案内記ででもあればそういう失敗はなおさらの事である。しかし、こういう意味で完全な案内記を求めるのは元来無理な事でなければならない。そういうものがあると思うのが困難のもとであろう。
 それで結局案内記がなくても困るが、あって困る場合もないとは限らない。
 中学時代に始めての京都見物に行った事がある。黒谷《くろだに》とか金閣寺《きんかくじ》とかいう所へ行くと、案内の小僧さんが建築の各部分の什物《じゅうもつ》の品々の来歴などを一々説明してくれる。その一種特別な節をつけた口調も田舎者《いなかもの》の私には珍しかったが、それよりも、その説明がいかにも機械的で、言っている事がらに対する情緒の反応が全くなくて、説明者が単にきまっただけの声を出す器械かなんぞのように思われるのがよほど珍しく不思議に感ぜられた。その時に見た宝物や襖《ふすま》の絵などはもう大概きれいに忘れてしまっているが、その時の案内者の一種の口調と空虚な表情とだけは今でも頭の底にありありと残っている。
 その時に一つ困った事は、私がたとえばある器物か絵かに特別の興味を感じて、それをもう少し詳しくゆっくり見たいと思っても、案内者はすべての品物に平等な時間を割り当てて進行して行くのだから、うっかりしているとその間にずんずんさきへ行ってしまって、その間に私はたくさんの見るべき物を見のがしてしまわなければならない事になる。それはかまわないつもりでいてもそこを見て後に、同行者の間でちょうど自分の見落としたいいものについての話題が持ち上がった時に、なんだか少し惜しい事をしたという気の起こるのは免れ難かった。
 学校教育やいわゆる参考書によって授けられる知識は、いろいろの点で旅行案内記や、名所の案内者から得る知識に似たところがある。
 もし学校のようなありがたい施設がなくて、そしてただ全くの独学で現代文化の蔵している広大な知識の林に分け入り何物かを求めようとするのであったら、その困難はどんなものであろうか。始めから終わりまで道に迷い通しに迷って、無用な労力を浪費するばかりで、結局目的地の見当もつかずに日が暮れてしまうのがおちであろうと思われる。
 しかし学校教育の必要といったような事を今さら新しくここで考え論じてみようというのではない。ただ学校教育を受けるという事が、ちょうど案内者に手を引かれて歩くとよく似ているという事をもう少し立ち入って考えてみたいだけである。
 案内記が詳密で正確であればあるほど、これに対する信頼の念が厚ければ厚いほど、われわれは安心して岐路に迷う事なしに最少限の時間と労力を費やして安全に目的地に到着することができる。これに増すありがたい事はない。しかしそれと同時についその案内記に誌《しる》してない横道に隠れた貴重なものを見のがしてしまう機会ははなはだ多いに相違ない。そういう損失をなるべく少なくするには、やはりいろいろの人の選んだいろいろの案内記をひろく参照するといい。ただ困るのは、すでに在《あ》る案内記の内容をそのままにいいかげんに継ぎ合わせてこしらえたような案内記の多い事である。これに反して、むしろ間違いだらけの案内記でも、それが多少でも著者の体験を材料にしたものである場合には、存外何かの参考になる事が多い。
 しかしいくら完全でも結局案内記である。いくら読んでも暗唱しても、それだけでは旅行した代わりにはならない事はもちろんである。
 案内記が系統的に完備しているという事と、それが読む人の感興をひくという事とは全然別な事で、むしろ往々|相容《あいい》れないような傾向がある。いわゆる案内記の無味乾燥なのに反してすぐれた文学者の自由な紀行文やあるいは鋭い科学者のまとまらない観察記は、それがいかに狭い範囲の題材に限られていても、その中に躍動している生きた体験から流露するあるものは、直接に読者の胸にしみ込む、そしてたとえそれが間違っている場合でさえも、書いた人の真を求める魂だけは力強く読者に訴え、読者自身の胸裏にある同じようなものに火をつける。そうして誌《しる》された内容とは無関係にそこに取り扱われている土地その物に対する興味と愛着を呼び起こす。
 専門の学術の参考書でもよく似た事がある。何かある題目に関して広く文献を調べようという場合にはいろいろなエンチクロペディやハンドブーフという種類のも
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