のはなくてならない重宝なものであるが、少し立ち入ってほんとうの事が知りたくなればもうそんなものは役に立たない。つまりは個々のオリジナルの論文や著書を見なければならない。それでこのような参照用の大部なものを、骨折って始めから終わりまで漫然と読み通し暗唱したところで、すでになんらかの「題目」を持っていない学生にとってはきわめて効果の薄い骨折り損になりやすいものである。またこんなものから題目を選み出すという事も、できそうでできないものである。これに反して個々の研究者の直接の体験を記述した論文や著書には、たとえその題材が何であっても、その中に何かしら生きて動いているものがあって、そこから受ける暗示は読む人の自発的な活動を誘発するある不思議な魔力をもっている。そうして読者自身の研究心を強く喚《よ》びさます。こういう意味からでも、自分の専門以外の題目に関するいい論文などを読むのは決して無益な事ではない。
それで案内記ばかりにたよっていてはいつまでも自分の目はあかないが、そうかと言ってまるで案内記を無視していると、時々道に迷ったり、事によると滝つぼや火口に落ちる恐れがある。これはわかりきった事であるが。それにかかわらず教科書とノートばかりをたよりにする学生がかなり多数である一方には、また現代既成の科学を無視したために、せっかくいい考えはもちながら結局失敗する発明家や発見者も時々出て来る。
名所旧跡の案内者のいちばん困るのは何か少しよけいなものを見ようとすると No time, Sir ! などと言って引っ立てる事である。しかしこれも時間の制限があってみれば無理もない事である。それでほんとうに自分で見物するには、もう一ぺんひとりで出直さなければならない事になる、ただその時に、例の案内者が「邪魔」をしてくれさえしなければいい。
しかし案内者や先達《せんだつ》の中には、自己のオーソリティに対する信念から割り出された親切から個々の旅行者の自由な観照を抑制する者もないとは言われない。旅行者が特別な興味をもつ対象の前にしばらく歩を止めようとするのを、そんなものはつまらない[#「つまらない」に傍点]から見るのじゃないと世話をやく場合もある。つまる[#「つまる」に傍点]とつまらない[#「つまらない」に傍点]とが明らかに「相対的」のものである場合にはこれは困る。案内者が善意であるだけにいっ
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