りがちな事である。これは危険の多いヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般の人にすすめる事のできかねるやり方である。
 しかし前の安全な方法にも短所はある。読んだ案内書や聞いた人の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を隠し耳をおおう。それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行李《こうり》の中にでも押しこめられたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり享楽したりすると同じような事になる、こういうふうになりたがる恐れがある。もちろんこれは案内書や教えた人の罪ではない。
 しかしそれでも結構であるという人がずいぶんある。そういう人はもちろんそれでよい。
 しかしそれでは、わざわざ出て来たかいがないと考える人もある。曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色、踏む大地と自分とが直接にぴったり触れ合う時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る事を恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを掘り出す機会がある。
 私が昔二三人連れで英国の某離宮を見物に行った時に、その中のある一人は、始終片手に開いたベデカを離さず、一室一室これと引き合わせては詳細に見物していた。そのベデカはちゃんと一度下調べをしてところどころ赤鉛筆で丁寧にアンダーラインがしてあった。ある室へ来た時にそこのある窓の前にみんなを呼び集め、ベデカの中の一行をさしながら、「この窓から見ると景色がいいと書いてある[#「書いてある」に傍点]」と言って聞かせた。一同はそうかと思って、この見のがしてならない景色を充分に観賞する事ができた。
 私はこの人の学者らしい徹底したアカデミックなしかたに感心すると同時に、なんだかそこに名状のできない物足りなさあるいは一種のはかなさとでもいったような心持ちがするのを禁ずる事ができなかった。なんだかこれでは自分がベデカの編者それ自身になってその校正でもしているような気がし、そしてその窓が不思議なこだわりの網を私のあたまの上に投げかけるように思われて来た。室に付随した歴史や故実などはベデカによら
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