ベルリン大学(1909−1910)
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)這入《はい》った
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一尺五寸|長《たけ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「契」の「大」に代えて「歯」、第4水準2−94−80]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チャン/\/\と
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一九〇九年五月十九日にベルリンの王立フリードリヒ・ウィルヘルム大学の哲学部学生として入学した人々の中に黄色い顔をした自分も交じっていた。厳かな入学宣誓式が行われて、自分も大勢の新入生の中にまき込まれて大講堂へ這入《はい》ったが、様子が分らないのでまごまごしていると、中に一人物馴れた日本人が居ていろいろ注意してくれて助かった。それは先年亡くなった左右田喜一郎《そうだきいちろう》博士であった。自分よりはずっと前にドイツへ来ていて他の大学からベルリンへ転学して来たそうで言葉なども自由らしかった。総長の演説があったが何を云っているか自分にはちっとも分らないので少々心細くなった。それから新入生一人一人に総長が握手をするというので、一列に並んで順々に繰出して行った。世話をやいている事務官らしいのが自分に向って何か言っているが、何を云ってるか分らない。左右田君に聞くと Wollen Sie dort anschliessen ? と云っただけなのだそうである。カール総長の握手の力の強いのにびっくりした。総長にでもなる人にはやはりそれだけの活力があるのかと思われた。
入学証書と云ったような幅一尺五寸|長《たけ》二尺ほどの紙に大きな活字で皇帝や総長の名を黒々と印刷したものを貰ったが文句はラテン語で何の事か分らない、見ていると気の遠くなるようなものであった。日附の所に D. Berolini d. 19. mens. V anni MDCCCCIX とあって下に総長の署名がある。「ベルリン」までがラテン化しているのでまた少し驚いた。それからもう一枚哲学部長の署名のあるこれもラテン語の入学免状を貰った。
式の前であったか後であったか忘れたが、大学の玄関をはいって右側の事務室でいろいろの入学手続をすませた。東京帝国大学の卒業証書も検閲のために差出したが、この日本文は事務の役人にとって自分の場合のラテン語以上に六《むつ》かしそうであった。色々記入する書式の中の宗教という項に神道と書いたら、それはどういう宗教だと聞かれて困った。ドイツ語がよく分らなくては講義を聴くのに困りはしないかと聞くから、なにじきに上手になりますと答えたら Na ! Sehen Sie mal zu. と云ってにやにやした。最後の zu が妙にいつまでも耳に残って気になった。
ベルリン着早々、中村気象台長からの紹介状をもってヘルマン教授を尋ね聴講科目などの指導を仰いだ。結局第一学期には、プランクの「物理学の全系統」ヘルマンの「気象器械の理論と用法」並びに「気象輪講」ルーベンスの「物理輪講」アドルフ・シュミットの「海洋学」「地球のエネルギーハウスハルト」「地球物理輪講」キービッツの「空中電気」ワールブルヒの「理論物理学特別講義」ペンクの「地理学輪講」という御膳立にきめた。
ヘルマンの講義はシンケル・プラッツの気象台へ聴きに行った。王宮と河一つ隔てた広場に面した四角な煉瓦造りの建物で、これは有名なシンケルの建てた特色のある様式の建築として聞こえたものだそうである。昔は建築のアカデミーでシンケルが死ぬまでここに住まっていたそうである。
ヘルマン教授は胡麻塩《ごましお》の長髪を後ろへ撫《な》でつけていて、いつも七つ下がりのフロックを着ていたが、講義の言語はこの先生がいちばん分りやすくて楽であった。自由に図書室へ出入りすることを許されたが図書室の中はいつ行ってみても誰もいないでひっそりしていた。
一緒に講義を聞いたのはせいぜい五、六人くらいで中にたしかルーマニア人でオテテレサヌという男がいた。はじめ会って名刺を貰ってその名前をよんだときに思わず顔中が笑い出しそうになって困った。その後も教授が厳粛な顔をしてこの人の名を呼びかける度に笑いたくなって困ったのであった。
これはずっと後のことであるが、ここへ通いながら纏《まと》めた小さな仕事を気象のコロキウムで話すように教授から命ぜられたとき、言葉が下手だからと云って断ったが、自分がすけてやるからぜひやれと云われ、仕方なしに黒板の前に立たされた。その時の苦しみは忘れられないが、しかしちょっと言葉につまるとヘルマン教授が狙っていたように必要な言葉をどなってくれるので、その度に地獄で仏に会ったような気がするのであった。
いつかノールウェーのビェルクネス教授が来てこの輪講会の席上で同教授一流の気象学を講じたときたいそう面白いと思って感心したが、列席のドイツ気象学者たち誰一人感心したように見えなかった。ビ教授はそれから後にアメリカへ渡ってかの地でかの著明な大著を刊行したのである。小国の学者になるものではないという気がしたのはあの時であった。
ヘルマンは古典に通じていて、気象の講義にも色々古典の引用が出て来た。いつか私邸に呼ばれたときにその自慢の豊富な書庫を見せてもらったことがあったが、その蔵書の一部が教授の死後、わが中央気象台に買取られて保存されている。
ヘルマン教授には三学期通じてずっと世話になって特別の優遇を受けたような気がしていた。二十余年の今日でもこの先生の顔をありあり思い出すことが出来てなつかしい。
ヘルマンの教室を出て右を見ると河向いにウィルヘルム一世記念碑のうしろの胸壁の裏側が見える。河岸に沿うて二町くらい歩くと王宮橋《シュロースブリュッケ》の西詰に出る。それを左へ曲るとウンテルデンリンデンですぐ右側の角《かど》がツォイクハウス、次が番兵屯所、その次が大学である。物々しい番兵の交代はベルリン名物の一つであったが、実際いかにも帝政下のドイツのシンボルのように花やかでしかもしゃちこばった感じのする日々行事であった。この花やかにしゃちこばった気分がドイツ大学生特にいわゆるコアー学生の常住坐臥《じょうじゅうざが》を支配しているように思われるのであった。
大学の玄関の左側にはちょっとした売店があって文具や、それから牛乳パンくらいを売っていたような気がする。オペラ、芝居、それから学生見学団のビラなどが貼ってあった。十時頃にはよく玄関でシンケン・ブロートの立喰いをしながらそんなビラを読んでいる連中がいた。林檎の皮ごとぼりぼり※[#「契」の「大」に代えて「歯」、第4水準2−94−80]《かじ》り歩いている女学生も交じっていた。
プランクやシュミットの講義はここで聴いた。プランクの講義も言葉が明晰で爽やかで聞取りやすい方であった。第一回の講義の始めに、人間本位の立場から物理学を解放すべきことや物理的世界像の単一性などに関する先生の哲学の一とくさりを聞かせた。綺麗に禿げ上がった広い額が眼について離れなかった。黒板へ書いている数式が間違ったりすると学生が靴底でしゃりしゃりと床をこするので教場内に不思議な雑音が湧き上がる。すると先生は「ア、違いましたか」と云って少しまごつく。学生の一人が何か云う。「御免なさい」と云ってそれを修正する。その先生の態度がいかにも無邪気で、ちっとも威張らず気取らないのが実に愉快で胸がすくようであった。
プランクの明るい感じと反対にアドルフ・シュミット教授は何となく憂鬱な感じのする人であった。いつも背広の片腕に黒い喪章を巻いていたような気がする。しかし実に頭のいい先生だと思って敬服していた。言葉は自分には少し分りにくいドイツ語であったがその講義は簡潔でしかも要を得た得難い良い講義だと思われた。大事なしかもかなり六かしい事柄の核心を平明にはっきり呑込ませる術を心得ているようであった。結局先生自身がその学問の奥底まではっきり突きとめて自分のものにしてしまっているせいだろうと思われた。日本の大学でもこうした講義がいちばん必要であろうと思われたが少なくも自分等の学生時代には高等学校と大学のコースの中間にこういうコースが抜けていたような気がする。それはとにかくシュミット教授についてただ一つ可笑《おか》しかった事は、先生が英国の数理物理学の大家 Love のことをローフェと発音していたことである。
地球物理談話会もほんの五、六人の仲間であったが、その中にまだ若いコールシュッター氏も交じっていた。地理教室の図書の管理をしていた、オットー・バシンという人も同じ仲間であったがこの人は聴講に身が入って来ると引切りなしに肩から腕を妙に大業《おおぎょう》に痙攣させるので、隣席に坐るとそれが気になって困った。あんまり勉強し過ぎて神経を痛めているのではないかという気がした。図書の管理者などはどこでも学生には煙たがられると見えて、いつか同席したクナイペの席上における学生の卓上演説で冗談交じりにひどくこき下ろされていたが、当人は Sehrgemeiner Kerl などという尊称を捧げられても平気で一緒に騒いでいる面白い人であった。
大学講堂の裏の|橡の小森《カスタニーンウェルドシェン》をぬけて一町くらいのゲオルゲン街の一区劃に地理教室と海洋博物館とが同居していた。地理のコロキウムはここで行われ、次の二学年を通じて聴いたペンクの一般地理学の講義もここの講堂で授けられた。気象や地球物理に比べて地理の方は輪講にも講義にも出席者が多く気分がまるで変っていた。気象輪講会は何となく上品にのんびりしていたし、地球物理輪講会は生真面目でしかも家族的な気分であったが、地理の輪講会には何となく物々しい人間臭い気分があった。学者で同時に政治家らしいペンク教授の人柄がやはり反映しているような気もした。いつか、カナダのタール教授が来て氷河に関する話をしたときなど、ペンクは色々とディスクシオンをしながら自分などにはよく分らぬ皮肉らしいことを云って相手を揶揄《やゆ》しながら一座を見渡してにやりとするという風であった。
ペンクの講義は平明でしかも興味あり示唆に富んだ立派な講義であると思われた。聴講者には外国人も多かったが外国人同士はやはり自然に近付きになりやすかった。英国人のオージルヴィ君や、ルーマニアのギリッチ君などとよく教室入口の廊下で立話をした。後者は今ベルグラードの観測所に居るが前者の消息は分らない。ドイツ学生の中にはずいぶん不真面目らしい茶目や怠け者も居て一体に何となく浮世臭い匂がこの教室全体に漂っているのを感じた。自分は幸いにここでも図書室を自由に開放してもらって、読書したりノートを取ったり、また河のメアンダーに関する小さな「仕事」をさせてもらったりした。ドイツの学者のアルバイテンという言葉の意味がここに一年半通って同学者のやり方を見聞している間に自ずから会得《えとく》出来たような気がした。一に根気二に根気で集輯した素材を煉瓦のように積んで行くのである。
探険家シャックルトンがベルリンへ来たときペンクの私邸に招かれ、その時自分も御相伴《おしょうばん》に呼ばれて行った。見知らぬ令夫人を卓に導く役を云い付かって当惑した。その席でペンクは、本日某無名氏よりシャックルトン氏の探険費として何万マルクとかの寄附があったと吹聴した。その無名氏なるものがカイザー・ウィルヘルム二世であることが誰にも想像されるようにペンク一流の婉曲《えんきょく》なる修辞法を用いて一座の興味を煽《あお》り立てた。
ペンクは名実共にゲハイムラートであって、時々カイザーから呼立てられてドイツの領土国策の枢機《すうき》に参与していたようである。今日はカイザーに呼ばれているからと云ったような言葉を何遍も聞いたような記憶がある。
いつか海洋博物館での通俗講演会でペンクが青島《チンタオ》の
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