ステッキ
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)杖《つえ》がつきものに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](昭和七年十一月、週刊朝日)
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初めは四本足、次に二本足、最後に三本足で歩くものは何かというなぞの発明された時代には、今のように若い者がステッキなどついて歩く習慣はなかったものと思われる。杖《つえ》がつきものになっている魔法使いはたいていばあさんかじいさんであるが、しかし彼らの杖はだいぶ使用の目的が違っていて、孫悟空《そんごくう》のなんとか棒と同様にきわめて精巧な科学的内容をもっていたものと思われる。シナの仙人《せんにん》の持っていた杖は道術にも使われたであろうが、山歩きに必要な金剛杖《こんごうづえ》の役にも立ったであろう。羊飼いは子供でも長い杖を持っているが、あれはなんの用にたつものか自分は知らない。牧羊者の祖先が山地の住民であったためか、それとも羊を追い回しおおかみでも追い払うために使われたものか、ともかくもいわゆるステッキとはだいぶちがったものである。それから雲助の息杖《いきづえ》というものがある、あれの使用法などは研究してみたらだいぶおもしろそうなものであるが、今日では芝居か映画のほかには山中へ行かなければ容易に見られないものになった。あれも現代におけるステッキの概念にはあてはまらないもので、昔の交通機関としての山駕籠《やまかご》という機械の部分品と考えるべきものであろう。
自分たちの子供の時分には、田舎《いなか》のおばあさんというものは、大概腰のところでからだが百二十度ないし九十度ぐらいに折れ曲がっていたもので、歩くにはどうしても杖を第三の足にしないと重力に対するつりあいがとれなかったものである。実に悲惨な格好をしていたものであった。木枯らしの吹くたそがれ時などに背中へ小さなふろしき包みなど背負ってとぼとぼ野道を歩いている姿を見ると、ひどく感傷的になってわあっと泣き出したいような気持ちになったものである。もういっそう悲惨なのは田んぼ道のそばの小みぞの中をじゃぶじゃぶ歩きながら枯れ木のような足に吸いついた蛭《ひる》を取っては小さなもめんの袋へ入れているそういうばあさんであった。こうして採集した蛭を売って二銭三銭の生活費をかせいでいたのである。思い出すだけでも世界が暗くなるくらいで、杖《つえ》という杖の中でもこういうばあさんの杖などは最もみじめな杖であろう。
親類のじいさんで中風《ちゅうぶう》をしてから十年も生きていたのがあった。それが寒い時候にはいつでも袖無《そでな》しの道服を着て庭の日向《ひなた》の椅子《いす》に腰をかけていながら片手に長い杖を布切れで巻いたのを持って、そうしていつまでもじっとしたままで小半日ぐらいのあいだ坊主頭を日に照らしていた。あたまの上にはたいてい蠅《はえ》が一匹ぐらいとまっていた。そういう夢のような幼時の記憶があるが、このように腰をかけながらついている杖などは杖としての珍しい用途であろう。力学的に考えるとやはりからだの安定を保つために必要な支柱の役をしていたに相違ない。
しかしこういうあらゆる杖に比べると、いわゆるステッキほどわけのわからない品物はないと思われる。屈強の青壮年が体重をささえるために支柱とするはずはないからである。もっとも銀座アルプスのデパートの階段などを上る時は多少の助けになるかもしれないが、そういう時でも彼らは必ずしもステッキの先端を床に触れているとは限らないのである。
西洋でいつのころから今のようなステッキが行なわれだしたものか知らないが、ロココの時代には貴婦人がたがリボン付きの長い杖をついている絵がある。またそのころのやさ男が粉をふりかけた鬘《かずら》のしっぽをリボンで結んで、細身のステッキを小脇《こわき》にかかえ込んで胸をそらして澄ましている木版絵などもある。とにかくあのころ以後はずっと行なわれて今日に至ったものであろう。いずれにしても人間がみんな働くのに忙しくて両方の手がいつもふさがっているような時代には全然用のないものであったに相違ない。人間の社会生活が進歩した結果として、何もしないで楽に遊んでいられる人間が多数に存在するようになると、今まで使っていた手が暇になって、全く言葉どおりに手持ちぶさたを感じる。そうかといって太平のシャンゼリゼーの大通りやボアの小道を散歩するのに、まさか弓矢や人殺し用の棍棒《こんぼう》や台所用のパン棒を携えるわけにも行かないから、その代わりに何かしら手ごろな棒きれを持つことになったのではないかとも想像される。とにかく昔のシナでは杖《つえ》の字は「持」の字と同じで手に持つものならなんでも「杖」であったらしい。
しかし、太平の世の中でもま
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