滔々《とうとう》と弁じたような形式で掲載されていた。そうして「異変」という言葉がなんべんとなく記事の間に繰り返されているのをなんのことかとよく考えてみたら、それは「イオン」のことであったのである。
このごろの新聞の科学記事には、そういうのは容易に見当たらない。それというのも大概は科学者自身に筆を執らせてそれを掲載するという賢明な方法をとっているので、そんな滑稽《こっけい》な記事はありにくいわけである。しかし今でも科学者でない新聞記者の手になったらしい記事の中には時々おもしろい実例が見つかるようである。たとえば、つい近ごろ二三新聞に「重い水」のことが出ていた。たぶん外国からの通信の翻訳であろうと思うが、あの記事なども科学者の目には実に珍妙なものであった。よくよく読んでみるとなるほど重い水素Dからできた水のことと了解されるが、ちょっと読んだくらいでは実に不思議な別物のような感じを起こさせるという書きぶりであった。ゆがんだ鏡に映った自分の顔をはじめは妙な顔だがなんだか見たような顔だと思って熟視しているとだんだんにそれが自分の映像だとわかってくるようなものである。このようにゆがめられた事実の横顔の描写が単に科学記事だけに限られているのならば幸いであるが、こういうのを見るたびに、われわれ読者は、同じような歪曲《わいきょく》が政治外交経済あらゆる方面の記事にも多少ちがった程度で現われているであろうと想像しないわけには行かないのである。有限な型の中のどれかにすべてのものを押し込もうとすればどうしても少々押し曲げなければうまくはまるはずはないのである。ただ社会人事に関する限り定型のストックが科学記事の場合とは比較にならぬほど豊富だからたいていの場合にはそれほどひどく曲げなくても収まるようなちゃんとした型が見つかりやすいのに、科学方面はあまりの「かたなし」であるから事実の顔はだらしなくくずれてしまうのであろうと思われる。
新聞の科学記事でいちばん科学者を辟易《へきえき》させるものはいわゆる「世界的大発見」や「大発明」の記事である。十年も前に発見されている事実がきのう発見されたことになったり、至るところで以前から使い古されているものがおととい発明されたりしたことになったりして現われるのはきわめて普通なことである。どうしてそういう間違いが起こるかについては、たとえば十年前に発見されたある事実に関するある一局部のきわめて特殊な研究が新たに成功したというような場合に、新聞記事ではその研究者がその昔発見された事実自身を今日始めて発見したこととして誤伝される場合もしばしばある。たとえば太陽黒点と日本の一部分のある特定の気象要素との間に或《あ》る相関を見つけたというのが、太陽黒点が地球の気象に関係するという事を始めて見つけたかのごとく報ぜられるような種類のものがはなはだ多いのである。これは担任記者の専門知識の欠乏によるのはもちろんであるが、それよりも科学的研究というものの本質に関する極端な無理解がもとであると思われる。もっともそういう無理解は、何も新聞記者だけとは限らず、一般世間の相当教養ある人士の間にも共通であって、その根源は結局日本における科学的普通教育に非常な欠陥のあることを物語るものであって、何も新聞記者諸氏のみの罪ではないのである。しかし、せめて大新聞の記者だけでも、たとえ具体的の科学知識はもたずとも、一人の学者の科学的研究というものはたとえて言わば道ばたに落ちた財布《さいふ》を拾うたような簡単なものではなくてたとえばツェペリンの骨組みを作り上げるための一本一本のリベットにたんねんな仕上げをかけるようなものだとぐらいには考えてもらいたいものである。そうすれば、リベット一本仕上げた人を、あたかもツェペリン全部を一人で一夜に完成したように誤報する心配だけはなくなるであろう。
新聞の科学記事で往々世界的「大発明」として報ぜられるものの中には、専門家でないアマチュアの多年の苦心の結果と称するものが往々ある。そういう場合にはきっと、その発明者が素人《しろうと》であるという事自身が、その発明が専門家の発明よりも立派なものであることを証明するかのごとき錯覚を起こさせるような麻酔剤が記事の行文の間に振りかけられている。また苦心の年月の長かったこと自身がその発明の巧妙さを裏書きするかのごとき暗示がほのめかされている。しかし実際には多くの場合にこういう発明はかなり不完全なものであったり、実は新しくもなんでもないものであったりする。今の科学的な利器は単に独創的な素人の思いつきや苦心だけで完成するにはあまりに多くの専門的知識の素養を必要とする、という明白な事実が日本のジャーナリストに一般には認識されていないのである。
こういう状況であるから多くのアカデミックなまじ
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