めな学者たちはその仕事が「世界的大発見」「大発明」として新聞に発表されることを何よりもこわがっている。どうかして間違ってこの災害にかかると、当人は冷や汗を流して辟易《へきえき》し、友人らはおもしろがってからかうのである。せっかくの研究が「いかもの」の烙印《らくいん》を押されるような気味が感ぜられるからである。それでも気の広い学者は笑って済ますが気の狭い潔癖な学者のうちには、しばしば「新聞的大発見」をするような他の学者に対してはなはだしく反感と軽侮をいだくような現象さえ生じるのである。こうなるとジャーナリズムはむしろ科学の学海の暗礁になりうる心配さえ生じるのである。
 純粋な物理学や化学の方面の仕事はどんな立派な仕事でも素人《しろうと》にはむつかし過ぎてわからないために、「こうした大発見」になる心配がまずまず少ないのであるが、たとえば気象や地震の方面だとその心配が多分にあるのである。そういう心配のありそうな論文でも発表しようとする場合には、その論文の表題を少し素人わかりの悪いものにしておけば、決してジャーナリストにつかまる心配がないということである。
 発明発見、その他科学者の業績に関する記事の特種《とくだね》は、たった一日経過しただけで、新聞記事としての価値を喪失するという事実がある。この事実もまたジャーナリズムのその日その日主義を証拠立てる資料となるであろう。学者の仕事は決して一日に成るものでなく、それを発表した日で消失するものでもないのであるが、新聞ニュースとしては一日過ぎれば価値はなくなる。しかも記者が始めて聞き込んだその日を一日過ぎるとニュースでなくなるのである。それで、誤ってジャーナリストの擒《とりこ》となった学者はそのつかまった日一日だけどうにかしてのがれさえすればそれでもう永久に逃げおおせることができるのは周知の事実である。
 こういう実に不思議な現象の原因の一つは新聞社間の種取り競争に関連して発生するものらしく思われる。その日に種にしなければどこか他の新聞に出し抜かれているという心配がある。しかし翌日の新聞をことごとく点検する暇などはない。そうして翌日は翌日の仕事が山積しているのである。
 このようなただ一日を争う競争はまたジャーナリズムの不正確不真実を助長させるに有効であることもよく知られた事実である。他社を出し抜くためにあらゆる犠牲が払われ、結局
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