イタリア人の家の庭から縁側が見下ろされる。二|間《けん》あるかなしの庭に、植木といったら柘榴《ざくろ》か何かの見すぼらしいのが一株塀の陰にあるばかりで、草花の鉢一つさえない。今頃なら霜解けを踏み荒した土に紙屑や布片などが浅猿《あさま》しく散らばりへばりついている。晴れた日には庭一面におしめやシャツのような物を干す、軒下には缶詰の殻やら横緒の切れた泥塗《どろまみ》れの女下駄などがころがっている。雨の日には縁側に乳母車があがって、古下駄が雨垂れに濡れている。家の中までは見えぬがきたなさは想像が出来る。細君からして随分こんな事には無頓着な人だと見える。どうせあんな異人さんのおかみさんになるくらいの人だからと下宿の主婦は説明していたそうな。しかし細君はごく大人しい好人物だというので近所の気受けはあまり悪い方ではなかったらしい。
主人のジュセッポの事を近所ではジューちゃんと呼んでいた。出入りの八百屋が言い出してからみんなジューちゃんというようになったそうである。自分は折々往来で自転車に乗って行くのを見かけた事がある。大きなからだを猫背に曲げて陰気な顔をしていつでも非常に急いでいる。眉の間に深い皺をよせ、血眼《ちまなこ》になって行手を見つめて駆けっているさまは餓えた熊鷹が小雀を追うようだと黒田が評した事がある。休日などにはよく縁側の日向《ひなた》で赤ん坊をすかしている。上衣を脱いでシャツばかりの胸に子供をシッカリ抱いて、おかしな声を出しながら狭い縁側を何遍でも行ったり来たりする。そんな時でも恐ろしく真面目で沈鬱で一心不乱になっているように見える。こちらの二階で話し声がしていても少しも目もくれず、根気よく同じような声を出して子供をゆすぶっている。しかし子供が可愛くてならぬという風でもない。ただ一心に何事かに凝り固まって世間の風が何処を吹くのも知る余裕がないといったようである。自分はこんな場合を見かけるとなんだか可笑《おか》しくもありまた気の毒な気がした。黒田はあれはこの世界に金を溜める以外何物もない憐れな男だと言っていた。五|厘《りん》だけ安いというので石油の缶を自転車にぶらさげ、下谷《したや》の方まで買いに出かけるという事であった。八百屋などが来ると自分で台所へ出かけてやかましく値切り小切りをする。大根を歯で喰い欠いてみてこれはいけないと云って突返したりする。煮焚きの事でも細君にはやらせないで独りで台所で何かガチャつかせながらやっていた。
花を尋ねたり、墓を訪うたり、美しい夢ばかり見ていたあの頃の自分には、このイタリア人は暗い黄泉の闇に荒金を掘っている亡者《もうじゃ》か何かのように思われた。とにかく一種侮蔑の念を抑える訳に行かなかった。日露戦争の時分には何でもロシアの方に同情して日本の連捷《れんしょう》を呪うような口吻《こうふん》があったとかであるいは露探《ろたん》じゃないかという噂も立った。こんな事でひどく近所中の感じを悪くしたそうだが、細君の好人物と子供の可愛らしいのとで幾分か融和していたらしい。子供は髪が黒くて色が白くて美しい。上の男の子はあの頃四つくらいで名はエンリコとかいうそうだが、当り前の和服を着て近所の子供と遊んでいるのを見ては混血児と思われぬようであった。黒田はこの児を大変に可愛がってエンチャン/\と親しんでいた。父親が金をこしらえあげた暁にこの児の運命はどうなるだろうかと話し合った事もある。
ジュセッポの家で時ならぬ嵐が起って隣家の耳を※[#「奇+支」、第4水準2−13−65]《そばだ》てさせる事も珍しくない。アクセントのおかしいイタリア人の声が次第に高くなる。そんな時は細君のことをアナタが/\と云う声が特別に耳立って聞える。嵐が絶頂になって、おしまいに細君の啜《すす》り泣きが聞え出すと急に黙ってしまう。そして赤ん坊を抱いて下駄ばきで庭へ出る。憤怒、悲哀、痛苦を一まとめにしたような顔を曇らせて、不安らしく庭をあちこち歩き廻るのである。異郷の空に語る者もない淋しさ佗しさから気まぐれに拵《こしら》えた家庭に憂き雲が立って心が騒ぐのだろう。こんな時にはかたくななジュセッポの心も、海を越えて遥かなイタリアの彼方、オレンジの花咲く野に通うて羇旅《きりょ》の思いが動くのだろうと思いやった事もある。細君は珍しいおとなしい女で、口喧《くちやか》ましい夫にかしずく様はむしろ人の同情をひくくらいで、ついぞ近所なぞで愚痴をこぼした事もない。従ってこの変った家庭の成立についても細君の元の身分についても、何事も確かな事は聞かれなかった。今は黒田も地方へ行ってしまってイタリア人の話をする機会も絶えた。
こんな事を色々思い出して帰って来ると宅のきたないのが今更のように目に付く。よごれた畳破れた建具を見まわしていたが、急に思いついて端書《はがき
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