た。始めて、幾何学のピタゴラスの定理に打《ぶ》つかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、おしまいには遂にその証明に成効した。論理的に確実なある物を捕える喜びは、もうこの頃から彼のうら若い頭に滲み渡っていた。数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無関係に驚くべき速度で増大した。十五歳の時にはもう大学に入れるだけの実力があるという事を係りの教師が宣言した。
 しかし中等学校を卒業しないうちに学校生活が一時中断するようになったというのは、彼の家族一同がイタリアへ移住する事になったのである。彼等はミランに落着いた。そこでしばらく自由の身になった少年はよく旅行をした。ある時は単身でアペニンを越えて漂浪したりした。間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素養が足りなかったので、しばらくアーラウの実科中学にはいっていた。わずかに十六歳の少年は既にこの時分から「運動体の光学」に眼を付け初めていたという事である。後年世界を驚かした仕事はもうこの時から双葉《ふたば》を出し初めていたのである。
 彼の公人としての生涯の望みは教員になる事であった。それでチューリヒのポリテキニクムの師範科のような部門へ入学して十七歳から二十一歳まで勉強した。卒業後彼をどこかの大学の助手にでも世話しようとする者もあったが、国籍や人種の問題が邪魔になって思わしい口が得られなかった。しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師を勤めながら静かに深く物理学を勉強した。かなりに貧しい暮しをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生があって、その後一九〇三年にこの人と結婚したが数年後に離婚した。ずっと後に従妹《いとこ》のエルゼ・アインシュタインを迎えて幸福な家庭を作っているという事である。
 一九〇一年、スイス滞在五年の後にチューリヒの公民権を得てやっと公職に就く資格が出来た。同窓の友グロスマンの周旋《しゅうせん》で特許局の技師となって、そこに一九〇二年から一九〇九年まで勤めていた。彼のような抽象に長じた理論家が極めて卑近な発明の審査をやっていたという事は面白い事である。彼自身の言葉によるとこの職務にも相当な興味をもって働いていたようである。
 一九〇五年になって彼は永い間の研究の結果を発表し始めた。頭の中にいっぱいにたまっていたものが大河の堤を決したような勢いで溢れ出した。『物理年鑑』に出した論文だけでも四つでその外に学位論文をも書いた。いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。
 ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇《ちゅうちょ》していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘《しょうへい》した。これが一九〇九年、彼が三十一歳の時である。特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼のとっては意義の深いものであったに相違ないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒのポリテキニクムの教授となった。大戦の始まった一九一四年の春ベルリンに移ってそこで仕事を大成したのである。
 ベルリン大学にける彼の聴講生の数は従来のレコードを破っている。一昨年来急に世界的に有名になってから新聞雑誌記者は勿論、画家彫刻家までが彼の門に押しよせて、肖像を描かせろ胸像を作らしてくれとせがむ。講義をすまして廊下へ出ると学生が押しかけて質問をする。宅《うち》へ帰ると世界中の学者や素人《しろうと》から色々の質問や註文の手紙が来ている。それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別|厭《いや》な顔をしないで気永に親切に誰にでも満足を与えているようである。
 彼の名声が急に揚がる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥という日本人にはちょっと分らない、しかし多くのドイツ人には分りやすい原理に、幾分は別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥同盟のようなものが出来た。勿論大多数は物理学者以外の人で、中にはずいぶんいかがわしい人も交じっているようである。これが一日ベルリンのフィルハーモニーで公開の弾劾演説をやって無闇《むやみ》な悪口を並べた。中に物理学者と名のつく人も一人居て、これはさすがに直接の人身攻撃はやらないで相対原理の批判のような事を述べたが、それはほとんど科学的には無価値なものであった。要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終ってしまった。気の永いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると云い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献の偉大な事を保証した。またアインシュタインは進まなかったらしいのを、すすめて自身の弁明書を書かせ、これを同じ新聞に掲げた。その短い文章は例の通りキビキビとして極めて要を得ているのは勿論であるが、その行文の間に卑怯な迫害者に対する苦々しさが滲透しているようである。彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマクス・ラインハルトの名も交じっていた。
 その後ナウハイムで科学者大会のあった時、特にその中の一日を相対論の論評にあてがった。その時の会場は何となく緊張していたが当人のアインシュタインは極めて呑気《のんき》な顔をしていた。レナードが原理の非難を述べている間に、かつてフィルハルモニーで彼の人身攻撃をやった男が後ろの方の席から拍手をしたりした。しかしレナードの急《せ》き込んだ質問は、冷静な、しかも鋭い答弁で軽く受け流された。
 レナード「もし実際そんな重力の『場』があるなら、何かもっと見やすい[#「見やすい」に傍点](anschaulich)現象を生じそうなものではないか。」
 アインシュタイン「見やすい[#「見やすい」に傍点]とか見やすくない[#「見やすくない」に傍点]とかいう事は時代とともに変るもので、云わば時の函数であります。ガリレーの時代の人には彼の力学はよほど見やすくないものだったでしょう。いわゆる見やすい観念などと称するものは、例の『常識』『健全な理知』(gesunder Menschenverstand)と称するものと同様にずいぶん穴だらけなものかと思います。」
 この返答で聴衆が笑い出したと伝えられている。この討論は到底相撲にならないで終結したらしい。
 今年は米国へ招かれて講演に行った。その帰りに英国でも講演をやった。その当時の彼の地の新聞は彼の風采と講演ぶりを次のように伝えている。
「……。ちょっと見たところでは別に堂々とした様子などはない。中背で、肥っていて、がっしりしている。四十三にしてはふけて見える。皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの梳《くしけず》らない団塊である。額には皺《しわ》、眼のまわりには疲労の線条を印している。しかし眼それ自身は磁石のように牽《ひ》き付ける眼である。それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚の奥に隠れたあるものを見透す詩人創造者の眼である。眼の中には異様な光がある。どうしても自分の心の内部に生活している人の眼である。」
「彼が壇上に立つと聴衆はもうすぐに彼の力を感ずる。ドイツ語がわかる分らぬは問題でない。ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。」
「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜《けんそん》で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を組合したり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また指の端を唇に触れたりする。しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬《またた》く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。」
「不思議な、人を牽《ひ》き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とでもいうような様子があるが、彼は実際にそうである。数学が出来ると同じ程度にヴァイオリンが出来る。充分な情緒と了解をもってモザルト、シューマン、バッハなどを演奏する……。」
 私が初めてアインシュタインの写真を見たのはK君のところでであった。その時に私達は「この顔は夢を見る芸術家の顔だ」というような事を話し合った。ところがこの英国の新聞記者も同じような事を云っているのを見ると、この印象はいくらか共通なものかもしれない。実際彼のような破天荒の仕事は、「夢」を見ない種類の人には思い付きそうに思われない。しかしただ夢を見るだけでは物にならない。夢の国に論理の橋を架けたのが彼の仕事であった。
 アメリカのスロッソンという新聞記者のかいた書物の口絵にある写真はちょっとちがった感じを与える。どこか皮肉な、今にも例の人を笑わせる顔をしそうなところがある。また最近にタイムス週刊の画報に出た、彼がキングス・カレッジで講演をしている横顔もちょっと変っている。顔面に対してかなり大きな角度をして突き出た三角形の大きな鼻が眼に付く。
 アインシュタインは「芸術から受けるような精神的幸福は他の方面からはとても得られないものだ」と人に話したそうである。ともかくも彼は芸術を馬鹿にしない種類の科学者である。アインシュタインの芸術方面における趣味の中で最も顕著なものは音楽である。彼の弾くヴァイオリンが一人前のものだという事は定評であるらしい。かなりテヒニークの六《むつ》ヶしいブラームスのものでも鮮やかに弾きこなすそうである。技術ばかりでなくて相当な理解をもった芸術的の演奏が出来るらしい。
 それから、子供の時に唱歌をやったと同じように、時々ピアノの鍵盤の前に坐って即興的のファンタジーをやるのが人知れぬ楽しみの一つだそうである。この話を聞くと私は何となくボルツマンを思い出す。しかしボルツマンは陰気でアインシュタインは明るい。
 音楽の中では古典的なものを好むそうである。特にゴチックの建築に譬《たと》えられるバッハのものを彼が好むのは偶然ではないかもしれない。ベートーヴェンの作品でも大きなシンフォニーなどより、むしろカンマームジークの類を好むという事や、ショパン、シューマンその他|浪漫派《ろうまんは》の作者や、またワグナーその他の楽劇にあまり同情しない事なども、何となく彼の面目を想像させる。
 絵画には全く無関心だそうである。四元の世界を眺めている彼には二元の芸術はあるいはあまりに児戯に近いかもしれない。万象を時と空間の要素に切りつめた彼には色彩の美しさなどはあまりに空虚な幻に過ぎないかもしれない。
 三元的な彫刻には多少の同情がある。特に建築の美には歎美を惜しまないそうである。
 そう云えば音楽はあらゆる芸術の中で唯一の四元的のものとも云われない事はない。この芸術には一種の「運動」が本質的なものである。ただその時とともに運動する「もの[#「もの」に傍点]」と空間とが物質的でないだけである。
 文学にも無関心ではないそうである。ただ忙しい彼には沢山色々のものを読む暇がないのであろう。シェークスピアを尊敬してゲーテをそれほどに思わないらしい。ドストエフスキー、セルバンテス、ホーマー、ストリンドベルヒ、ゴットフリード・ケラー*、こんな名前が好きな方の側に、ゾラやイブセンなどが好かない方の側に挙げられている。この
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