いといったような事を話したそうである。この点でも彼は一種のレラチヴィストであるとも云われよう。それにしても彼が幼年時代から全盛時代の今日までに、盲目的な不正当なショーヴィニズムから受けた迫害が如何に彼の思想に影響しているかは、あるいは彼自身にも判断し難い機微な問題であろう。
桑木博士と対話の中に、蒸気機関が発明されなかったら人間はもう少し幸福だったろうというような事があったように記憶している。また他の人と石炭のエネルギーの問題を論じている中に、「仮りに同一量の石炭から得られるエネルギーがずっと増したとすれば、現在より多数の人間が生存し得られるかもしれないが、そうなったとした場合に、それがために人類の幸福が増すかどうかそれは疑問である」と云ったとある。ただこれだけの断片から彼の文化観を演繹《えんえき》するのは早計であろうが、少なくも彼が「石炭文明」の無条件な謳歌者でない事だけは想像される。少なくも彼の頭が鉄と石炭ばかりで詰まっていない証拠にはなるかと思う。
彼はまだこれからが働き盛りである。彼が重力の理論で手を廻さなかった電磁気論は、ワイルによって彼の一般相対性原理の圏内に併合されたようである。これが成効であるとしても、まだ彼の目前には大きな問題が残されている。それはいわゆる「素量《クアンタム》」の問題である。この問題にも彼は久しい前から手を付けている。今後彼がこれをどう取り扱うかが何よりの見ものであろう。エジントンの云うところを聞くと、一般相対原理はほとんどすべてのものから絶対性を剥奪した。すべては観測者の尺度による。ただ一つ残されたものが「作用《アクション》」と称するものである。これだけが絶対不変な「純粋の数」である。素量説なるものは取りも直さずこの作用に一定の単位があるという宣言に過ぎない。この「純数」がおそらくある出来事の「確率《プロバビリティ》」と結び付けられるものであろうと云っている。これに対するアインシュタインの考えは不幸にしていまだ知る機会を得ない。ただ彼が昨年の五月ライデンの大学で述べた講演の終りの方に、「素量説として纏《まと》められた事実があるいは『力の場《フェルド》』の理論に越え難い限定を与える事になるかもしれない」と云っている。この謎のような言葉の解釈を彼自身の口から聞く事の出来る日が来れば、それは物理学の歴史でおそらく最も記念すべき日の一つになるかもしれない。
[#地から1字上げ](大正十年十月『改造』)
底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「改造」
1921(大正10)年10月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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