、朝食のときに吾々の話していた問題がもう講義の種子になっているのを発見することがしばしばあった。」また母への手紙にもこの講義が「例のタムソン式で、つまり情熱的で、取り止めもなく声を出しながら考えるという行き方」であったと評している。
 カナダから帰るとすぐケンブリッジへ辞表を出した。在職五年間に出した論文の数は六十余あった。「あの調子で永くはとても続けられなかった」というのが後年の述懐であった。
 郷里ターリングに引上げてから、自分の研究室の準備にかかった。厩《うまや》の二階の物置を二つに仕切って一方を暗室とし、壁と天井を、煤《すす》とビールの混合物で塗った。この室の両窓にヘリオスタートを取付け、ここへ分光器その他の光学器械を据え付けた。片方の仕切りにはテプラーポンプや附属のマノメーターなどを置いた。後にアルゴンの発見されたのはこの室であった。感応コイルの第一次電路をピストルで切る実験もここで行われた。この室と煉瓦壁を隔てた一室が寝室であって、この隔壁に穴をあけて音響学実験の際に便利なようにした。実験室の階下が工場で、その隣室の「学校部屋」に棚を吊って薬品をならべた。ここで、液体運動の実験が行われ、また写真現像も出来た。彼の書斎は無頓着にいつでも取り散らされ、大きな机の上は本や論文でおおかた埋められてほんのわずかの面積だけが使われていた。机の片隅には彼が元服祝に貰った鳶色《とびいろ》の革函《かわばこ》が載っており、これに銭と大事な書類がしまってあった。右手の書架には学生中のノートブックがあり、ストークスの講義の筆記もその中にあった。自著『音響学』が一部、これは紙片にかいたノートがいっぱい這入《はい》っていた。彼が何かたいそう熱心に読んでいると思ったら大抵自分の書いたものだと云って家族達はよく笑った。室の照明は私設ガスタンクのガスによって、倹約と保守的な気分と面倒がりとのために電燈設備をしないでしまった。
 雑誌類は人に貸さなかった。ケルヴィンが Phil. Mag. を借りようとしたときも許さなかった。古い包紙やボール函や封筒なども棄てずに取っておいて使った。
 地下室の物置部屋へ行く隧道《トンネル》が著しい反響を示すことは彼の『音響学』に書いてある。この隧道の一端で、水面による干渉縞《かんしょうじま》の実験や、マイケルソン干渉計の実験が行われた。
 ターリングでやろうと計画していた研究の一つは、主要なガス元素の比重を精密に測定してブラウト方則を験しようというのであった。これは何でもないようでなかなかの大仕事であった。レーリーの手一つでは間に合わないので、ケンブリッジの助手前記のゴルドンを呼び寄せた。彼は家族を挙げてターリングの邸内に移り、死ぬまでここでレーリーの片腕となって働いた。村人は時々「旦那様の遊戯部屋」の「実験室」についてゴルドンに質問し "That ain't much good, is it?" などと云った。
 ガス比重測定は、一八四五年レニョー(Regnault)の発表したもの以来誰もやらなかった。レーリーはレニョーの実験における浮力の補正に誤りのあることに気付いたので、もう一度詳しくやり直す必要を感じたのである。
 地下室の中に作った天秤室《てんびんしつ》の空気を乾かすのに、毛布を使ったりしたところにレーリーの面目が現われている。二つのガラス球の容積の差を補正するために添えたU字管に、眼に見えぬくらいの亀裂があったのを気付かないでいたために不可解な故障が起って、ほとんど絶望しかけたとき、珍しい低気圧がやって来て、その時の異常な結果からやっとこの故障の原因が分ったというような挿話もあった。
 酸素対水素の比重に関する最初の論文を出したのは一八八八年で、つまりこの仕事をはじめてから三年の後である。その後のは一八八九年と一八九二年に出た。結果の比は一五・八八二であった。水素の純度について苦心していたとき、デュワー(Dewar)はスペクトル分析をすすめた。それに関するレーリーの手紙に「スペクトロスコピーの泥沼に踏込むことになっても困るが」と書いてある。
 この頃『大英百科全書』の第九版の編輯《へんしゅう》が進行していた。これにレーリーの「光学」と「光の波動論」が出ることになった。彼の原稿があまり専門的であった上に予定の頁数を超過するので編輯者の方から苦情が出た。そのために一部を割愛して後に "Aberration" と題して『ネーチュアー』誌に掲載した。後日彼は、あるアメリカの農夫が『百科全書』を買ってAからZまで通読しているという噂をして「私の波動論をどう片付けるか見ものだ」と云った。
 一八八四年にレーリーは王立協会の評議員をつとめたことがあった。その後当時の幹事ストークスが会長になることになったので後任幹事の席が
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