の面前に現われた最後は心霊学界の会長就任演説(一九一九)をした時であった。この演説も全集に収められている。
一九一七―一八年の冬頃からどうも脚が冷えて困ると云ってこぼしていた。一九一八年の夏は黄疸《おうだん》で二箇月寝込んだ。彼は自分の最後の日のあまり遠くないのを悟ったらしかった。それでもやはり仕事を続け、一九一八年には五篇、一九一九年には七篇の論文を出した。
一九一八年の暮バキンガム宮で大統領ウィルソンのために開かれた晩餐会に列席した。明けて一九一九年正月の国民科学研究所の集会に出た時に所長の重職を辞したいと申出たが、一同の強い勧誘で一先ず思い止まった。その時のついでに彼はインペリアルカレッジの実験室に長子をおとずれた。丁度その時子息が実験していた水銀燈を見たときに、彼は、干渉縞[#「干渉縞」は底本では「干渉稿」]の写真を撮って、それで光学格子を作るという、自分で昔考えた考察を思い出した。しかしターリングの設備では実行が出来ないのであった。それで、次にロンドンへ来た折に二人で一緒にやってはどうかという子息の申出を喜んだように見えた。それから帰宿の途中、地下鉄の昇降器の中で卒倒したが、その時はすぐに回復した。
一九一九年五月十八日の日曜、例の通り教会へ行ったが気分が悪いと云って中途で帰宅し、午後中ソファで寝ていた。翌朝は臥床を離れる元気がなかった。五月二十七日と二十八日とは好天気であったので、戸外の美しい日光の下でお茶に呼ばれるために、二階からやっと下りて来た。六月一日長子が週末で帰省したときに、自分はもう永くはないが、ただ一つ二つ仕上げておきたいことがあると云った。六月二十五日には「移動低気圧」に関する論文の最後の一節を夫人に口授して筆記させ、出来上がった原稿を Phil. Mag. に送らせた。六月三十日には少し気分がよさそうに見えた。晩餐後ミス・オーステンの小説『エンマ』を読んでいた。しかし従僕が膳部を下げにはいって見ると、急に心臓麻痺を起していたので、急いで夫人を呼んで来た。それから間もなくもうすべてが終ってしまった。
葬式はターリングで行われた。キングは名代を遣わして参列させ、その他ケンブリッジ大学や王立協会の主要な人々も会葬し、荘園の労働者は寺の門前に整列した。墓はターリング・プレースの花園に隣った寺の墓地の静かな片隅にある。赤い砂岩の小さな墓標
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