ゥ与えないかという問題となると、前述の見解の相違の結果が明瞭《めいりょう》に現われて来るのである。
 現在の精密科学の方法の重要な目標は高級な数理の応用と、精緻《せいち》な器械を用いる測定である。これが百年前の物理学と今の物理学との間に截然《せつぜん》たる区別の目標を与えるのである。それで考え方によっては物理的科学の進歩すなわち応用数学と器械の進歩であるかのごとき感じを与えるのである。今もしこの二つの目標に準拠してルクレチウスを批判し採点するとすればどうであろう。これはいうまでもなく全然落第でありゼロである。なんとなれば全巻を通じて簡単な代数式一つなく、またなんらの簡易な器械を用いていかなる量を測定した痕跡《こんせき》もないからである。
 しかし、今一方に数理と器械を持たない赤手《せきしゅ》のルクレチウスを立たせ、これと並べて他方に数学書と器械を山ほど積み上げた戸棚《とだな》を並立させてよくよくながめて見るのもおもしろい。ルクレチウスは素手でともかくも後代の物理的科学の基礎を置いたことは事実であるのに、頭脳のない書物と器械だけでは科学は秋毫《しゅうごう》も進められないのである。
 この明白なる事実は不幸にして往々忘れられる。数学と器械が、それを駆使する目に見えぬ魂の力によって初めて現わし得た偉大な効果に対する感嘆の念は、いつのまにか数学と器械そのものに対する偶像的礼拝の心に推移しようとする傾向を生ずる。そういう傾向は特に現代のアカデミックな教育を受けた若い学生の間に多いのみならず、また西洋でも二三流以下の学者の中にかなりに存在するように見える。この迷信の結果は往々はなはだしく滑稽《こっけい》な事になって来る。きわめて不適当あるいは誤った考えを前提としてそして恐ろしくめんどうな高等数学の数式を取り扱い、その解式が得られると、その数式の神秘な力によって、瓦礫《がれき》の前提から宝玉の結果が生まれるかのような気がしたり、またその計算がむつかしくめんどうであればあるほど、その結果の物理的価値が高められるかのごとき幻覚を生ぜしめることもまれではないようである。しかし数学の応用は畢竟《ひっきょう》前提の分析である。鉛を化して金とする魔力はないのである。同じように立派な高価な器械を使えば使うほど何かしらいい結果が得られるというような漠然《ばくぜん》たる予感もやはり器械に対する一つの迷信である。いかに良い器械でも下手《へた》に使えば、悪い器械を上手《じょうず》に使うよりも悪い結果を得る例も少なくない。もっとも有りきたりの陳腐な方法を追求する場合には、器械の良いほど良い結果を得られるのは普通である。しかしほんとうな意味での新しい独創的の研究をするのに市場に売り古されて保証の付いているほど陳腐な器械ばかり寄せ集めてできたためしはおそらくないであろう。
 もっともこう言ったからとて私は、定石的数学応用の理論や既成的の方法器械によるルーティン的の実験測定の仕事の価値を少しでもけなそうとするものではない。そういうのが無数に寄り集まってこそ、初めて現在のごとき科学の壮麗な殿堂が築き上げられたということは毫《ごう》も疑う余地のないことである。
 しかしいかに建築材料だけが立派に堆積《たいせき》されてあってもそれだけでは殿堂はできない。殿堂の建設には設計者のファンタジーが必要である。
 科学の殿堂と言っても、その建設はもちろん家屋の建築とはわけがちがう。家屋の建築は設計者の気随になる。必要な建築学上の規則に牴触《ていしょく》しない限りはあらゆる好きな格好のものを設計してもよいはずである。しかるに科学のシステムの設計はそう勝手にできるものではない。相手がすでに与えられた自然界である。たとえば空中を落下する石塊をわれらの意志の力で止めるわけには行かない。それで、しいて科学の系統の建設を建築にたとえようとすれば、それは数限りもない種々な所定条件のどれにもうまく適合するような家を造り上げるという事である。そういう建築、そういう系統が究極的にはたしてできうるかどうか。それはルクレチウスの時代にもよくわからなかったと同様に現在においてもわからないことである。しかしそれができるという信念のもとに努力して来た代々の学者の莫大《ばくだい》な努力の結果がすなわち現在の科学の塔である。
 科学の高塔はいまだかつて完成した事がないバベルの塔である。これでもうだいたいできあがったと思うと、実はできあがっていないという証拠が足元から発見される。職工たちの言葉が混乱してわからなくなる。しかし、すべての時代の学者はその完成を近き将来に夢みて来た。現在がそうであり、未来もおそらくそうであろう。
 このおそらく永遠に未完成であるべき物理的科学の殿堂の基礎はだれが置いたか。これはもちろん一人や二人の業績ではない。しかしその最初のプランを置き最初の大黒柱を立てたものは、おそらくルクレチウスの書物の内容を寄与したエピキュリアンの哲学者でなければならない。人はアリストテレスやピタゴラスをあげるかもしれない。前者は多くの科学的素材と問題を供し後者は自然の研究に数の観念を導入したというような点で彼らもまた科学者の祖先でないとは言われない。しかし彼らの立っていた地盤は今の自然科学のそれとはむしろ対蹠的《たいせきてき》に反対なものであったように見える。形而上学的《けいじじょうがくてき》の骨格に自然科学の肉を着けたものという批評を免れることはむつかしい。しかしそういう目的論的形而上学的のにおいをきれいに脱却して、ほとんど現在の意味における物理的科学の根本方針を定めたものはおそらくエピクロス派の人々でなければならない。彼らは少なくも現在の科学の筋道あるいは骨格をほとんど決定的に定めてしまったとも言われる。後代の学者はこれに肉を着け皮を着せる事に努力して来たようにも見られる。
 この大設計は決して数学や器械の力でできるものではなくて、ただ哲人の直観の力によってできうるものである。古代の哲学者が元子の考えを導き出したのは畢竟《ひっきょう》ただ元子の存在を「かぎつけた」に過ぎない。そして彼らが目を閉じてかぎつけた事がらがいよいよ説明されるまでには実に二千年の歳月を要したのである。
 真理をかぎつける事の天才はファラデーであった。しかし彼の直観の能力に富んでいたという事は少しも彼の科学者としての面目を傷つけるものではなかった。彼がもし真理に対する嗅覚《きゅうかく》を恥としたのであったら、十九世紀の物理学の進歩はたぶん少なからず渋滞をきたしたに相違ない。
 ファラデーはしかし彼の直観を周到厳重な実験の吟味にかける事を忘れなかった。この事がなかったら彼はおそらく十九世紀の科学者であり得なかったに相違ない、ところでデモクリトス、エピクロス、ルクレチウスはたしかにファラデーのような実験はしなかった。そういう意味では彼らは明らかに科学者ではあるまい。しかしもし彼らがその驚くべき直観の力を具有してしかしてガリレー以後に生まれ、ファラデーの時代に生まれたと仮定したらどうであろう。
 もっともルクレチウスを科学者と名づけるか、名づけないかというような事は実はどうでもよい事で、またどうでも言える事である。しかし私のここで問題とするところは、現代の精密科学にとってルクレチウスの内容もしくはその思想精神がなんらかの役に立ちうるかということである。ルクレチウスの内容そのものよりはむしろ、ルクレチウス流の方法や精神が現在の科学の追究に有用であるかどうかということである。
 科学上ではなんらかの画紀元的の進展を与えた新しい観念や学説がほとんど皆すぐれた頭脳の直観に基づくものであるという事は今さらに贅言《ぜいげん》を要しない事であるにかかわらず、昔も今も通有な一種の偏狭なアカデミックの学風は、無差別的に直観そのものを軽んじあるいは避忌するような傾向を生じている。これは日本やドイツばかりには限らないと見えて米国の学者でこの事を痛切に論じたものもあった(4)[#「(4)」は注釈番号]。これは科学にとって自殺的な偏見である。近代物理学に新紀元を画した相対的原理にしても、素量力学や波動力学にしても、直観なしの推理や解析だけで組み立てられると考える事がどうしてできよう。私はアインシュタインやド・ブローリーがルクレチウスを読んだであろうとまでは思わないが、彼らの仕事に最初の衝動を与え幾度か行き詰まりがちの考えに常に新しい活路を与えたのは、私に言わせれば彼らの頭の中にいるルクレチウスのしわざである。決して彼らの図書室に満載された中のどの物理学書でもないのである。
 しかし何もアインシュタインやブローリーらのごとき第一流の大家だけには限らない。ほとんどいかなる理論的あるいは実験的の仕事でも、少しでも独創的と名のつく仕事が全然直観なしにできようとは到底考えられない。「見当をつける」ことなしに何事が始め得られよう。「かぐ」ことなしにはいかなる実験も一歩も進捗《しんちょく》することはあり得ない。うそだと思う人があらば世界の学界を一目でも見ればわかることである。
 ケルヴィンやマクスウェルがルクレチウスを読んだのはなんのためであるかはよくわからない。しかし彼らがこの書の中に彼らに親しい何物かを感じたには相違ないと想像される。実際ルクレチウスに現われた科学者魂といったようなものにはそれだけでも近代の科学者の肺腑《はいふ》に強い共鳴を感じさせないではおかないものがある。のみならず、たとえ具体的にはいかに現在の科学と齟齬《そご》しても、考えの方向において多くの場合にねらいをはずれていないこの書物の内容からいかに多くの暗示が得られるであろうかという事はだれでも自然に思い及ばないわけには行かないであろう。
 原子素量の存在、その結合による物質の構成機巧、物質総量の不滅、原子の運動衝突と物性の関係、そういうようなものが予想されているばかりでなく、見方によっては電子のようなものも考えられており、分子《ぶんし》格子《こうし》のごときものも考えられている。またおそらくニウトンが直接あるいは間接に受けついだと思われる光微粒子説でも一時全く忘れられていたのが、最近にまた新しい形で復活して来たのは著しい事である。また彼が生物の母体から子孫に伝わると考えた遺伝の元子のようなものが近代の生物学者の考える遺伝素といかによく似たものであるか。そういう事を考えてみる。十九世紀二十世紀を予言した彼がどうしてきたるべき第二十一世紀を予言していないと保証する事ができようか。今われわれがルクレチウスを読んで一笑に付し去るような考えが、百年の後に新たな意味で復活しないとだれが断言しうるであろうか。
 私は自分の頭になんらの「考え」をもたない科学者がかりにあるとして、そういう人がルクレチウスを百ぺん読んでもなんの役にも立とうと思わない。女学校上がりの若い細君が料理法の書物を読むような気でこの詩編のすみずみまで捜したところで、すぐ昼食の間に合いそうな材料は到底見つからない。そういう目的ならば、ざらにある安い職業的料理書を見て、完全なる総菜料理を捜したほうがいいのである。
 しかし多くの科学の探究者はそれでは飽き足らないであろう。その当代のその科学の前線まで進んで来て、そこでなんらかの自分の仕事をしようとしている人たちは、眼前の闇黒《あんこく》な霧の中にある何物かの影を認めようとあせっているのである。そうしてその闇《やみ》の底に何かしら名状のできない動くものの影か幻のようなものを認めるように思う。しかしそれが何であるかははっきりわからない。そういう状態が続いているうちに突然天の一方から稲妻のような光がひらめいて瞬間に眼前のものの正体が見える。それからいよいよその目的物を確実につかむまでにはもちろん石橋をたたいてそこまで歩いて行かなければならない。行ってみると、それは実体のない幻影であって失望する事ももちろん往々ある。しかしこの天来の閃光《せんこう》なしには彼らは一歩も踏み出す事はできない。
 今もしルクレ
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