の自然方則に支配されている、その記述に移らんとするための前置きとも見られない事はない。すなわちその次に彼はすべての物質は自分の力では「上方」には上らないという方則を持ち出すのである。
 見かけの上から「上」に浮かぶものはいろいろあるが、それは別に働力のためであると考えている。これもストア派に対する反対だそうである。
 この考えからすると、すべての元子は皆「下」にまっすぐに落ちる。その場合いかにして元子相互間の衝突が可能となるか。この困難を切り抜けるために持ち出された一つの今から見て奇抜な考えは、この元子のおのおのはその直線的並行落下の途中で、ある不定な時、不定な場所において、おりおり、きわめて少しその経路を曲げるというのである。
 しかし各種元子の中で、重いのと軽いのとで各自の落下速度がちがうとすれば相対距離が変化するから相互の衝突が起こりうるではないかという人があるだろう。しかしそれは誤っている。なんとならば、真空中では抵抗がないから、すべての元子は同速度で落下するからである、とルクレチウスは断言している。彼がおそらくなんの実験にもよらずしていかにしてこの落体に関するアリストテレスの誤謬《ごびゅう》を認め得たかはわからない。しいて想像すれば空気中と水中とにおける落体の偶然な観察が彼の直覚を誘発したかもしれない。
 元子が互いに衝突するために物が生成し変転するという考えと元子が同速度で並行に動くという考えとの矛盾を融和するために持ち出されたこの原子の偶然的任意的偏向を一転して「自由意志」の存在と結び付けようとしている。これがはなはだ注目すべき考えである。
 彼は人間や動物に自由意志なるものの存在を無条件に容認する。さて彼の元子論に従ってすべての元子が自然方則によって直線落下をつづけるか、あるいは少なくもなんらかの確定的の方則によって支配されているならば、すべての世界の現象は全然予定的に進行するのみであって、その間になんら「自由」なる意志の現われうべき余地はないのである。しかし一方で意志の存在を許すとすれば、これはどこからはいり込んで来るか。徹底的物質論者である彼はそういうものを物質以外の世界から借用して来るという二元論的態度はどうしてもとれなかった。従って当然の必要から彼は意志の根元を彼の元子に付与したのである。
 この考えは一見はなはだ非科学的に見えるであろう。当時でもキケロによって児戯視されたものである。しかし今の科学のねらいどころをどこまでも徹底させて生物界の現象にまでも物理学の領土を拡張しようとする場合には、だれでも当然に逢着《ほうちゃく》すべき一つの観念である。私はかつて雑誌「思想」の昭和二年九月号に出した「備忘録」の中で、生命の起元に関する未熟な私見を述べた際に、生命の胚子《はいし》は結局原子そのものに付与するのが合理的であるという考えを述べておいた。これは、数年前、同種元素の原子に個性の存在を暗示したウィリアム・ソディの説に示唆されてから考えた事であったが、今になって考えてみるとこの私の考え方は全然ルクレチウスのここの考えを、知らずに踏襲したものとも言われるのである。
 自然の漸進的死滅を救いうべき「選択原理」の有無について前章に述べた事をここで再び繰り返し考えてみると、私はこのルクレチウスの元子の任意志的偏向のうちに、その求むる原理の片鱗《へんりん》のごときものを認めうるのではないかと思うのである。
 さて元子の形状や大きさはどんなものかという説明に移る前に、これらの元子の種別の多種多様である事を述べている。この種別に関しては、現今では有限数の元素を区別するが、同一元素のすべての原子はすべて同等であるごとく考える。もっとも化学の方面では炭素原子の種々の化合価を有するものを区別し、またスペクトルの物理では同元素原子の種々の素量的状態を区別するが、そういう変態はどの原子にも共通に可能と考えるから、結局同元素原子には個性を認容していないことになる。しかるにルクレチウスの言葉から判断すると、人間がめいめいに異なるごとく、羊と羊とが異なるごとく、全く同一なる元子は一つもないと考えているらしい。すなわちウィリアム・ソディの暗示したごとく原子の個性を認める事に相当する。この現代科学の考え方とちがった考え方をしたのは、いかなる必要もしくは動機によるかわからないが、しかし前述の元子の自由意志の考えとは、かなりまでよく融合しうるものであることを注意しておきたい。
 元子には大きさの種類がある。たとえば雷電の火の元子は薪炭の火の元子よりも微小であるから、よく物を透す力がある。光は提灯《ちょうちん》の羊角《ようかく》を透るが雨ははね返される。これも光と水の元子の大きさの差による、というような例があげてある。
 次には元子の形状の差違を
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